② 箱根・三島・御殿場 Day2|天下の嶮を越えて――江戸の旅人を追う

神奈川

 天が開くとき

 強羅駅に箱根登山ケーブルカーが滑り込んで来た。

前日に到着した標高541mの強羅駅から、乗り場を変え更に約1.2km程先の標高750mにある早雲山駅を目指す。

 それにしても、この傾斜角には度肝を抜かれた。

最大勾配200‰(パーミル)となれば、車内も階段状になっている程で、もはや私の常識の範疇を超えている。

もしレール上で、でんぐり返しをしようものなら、おむすびころりんのように、小田原まで転がっていきそうだ。

また、このまま駆け上がるなら、宇宙まで届いてしまいそうだった。

 ケーブルカーは、ロープに引かれながらゆっくり山を登っていく。

わずか十分ほどだったが、忘れられない乗車体験となった。

 早雲山駅からは、

ロープウェイに乗り換え、

もっともっと上へ上へと高度を増してゆく。

ゴンドラの中には外国人も含め10人くらいは乗っていただろうか。

どちらかといえば皆無口で、外から遮断された一切を、ただ静かに進んでゆく風景に身を任せているようであった。

ところがついに、どこまでも続くかと思われた天の一角が開けた。

するとあれだけ静寂を保っていた10人が、

総立ちになり歓声を上げた。

同時に、外の世界と切り離されていたはずのゴンドラの中へ、ゴォォォ・・・と凄まじい噴出の音、硫黄の匂いが雪崩のように襲ってきた。

はははぁ、ここがかぁ・・・

私はようやく箱根のシンボルというべき大涌谷に着いたのだと実感したのだった。

火山とともに生きる

 つい忘れがちになってしまいそうになるのだが、箱根は立派な活火山だ。

その歴史をぎゅぎゅっとざっくり表すと、伊豆半島が本州にぶつかって、40万年前ごろから火山活動が始まり、23万年前~13万年前に、大規模な噴火が繰り返されカルデラが形成された。

そして約3000年前、神山が崩れ大涌谷と芦ノ湖ができ現在の箱根になった。

とまあ、あまりに端的説明過ぎて箱根火山に怒られそうだ・・・が、とにかく昨日、今日でできたものではない。

 最近旅した熊本の阿蘇山、鹿児島の桜島などを振り返り俯瞰してみると、私は今まさに火山島に暮らしていることが分かる。

先人たちは、幾つものプレートがぶつかり合って生まれた大地を巧みに利用し、温泉や豊かな食文化など、この島国ならではの文化を築き上げてきた。それが今日の日本なのではなかろうか。

 さて、ここらあたり息子を登場させてみようと思う。

私の気まぐれ旅に付き合わされた犠牲者でもある。

彼が一番興奮したのが、この黒たまご。

さてさて大地の恩恵の味はいかなる味であったろうか。

大涌谷からは再びロープウェイ、芦ノ湖からは海賊船に乗り換え、

南北縦断という形で、

箱根駅伝の往路ゴール・復路スタート地点にほど近い箱根町港に着いた。

ここで昼時ということもあって、名物ワカサギの天ぷらを食した。

昔の旅人が見た箱根

 今でこそ箱根の山には、東海道新幹線や東海道本線のトンネルが真っすぐに延びている。

特に新幹線であれば、いつ通過したのか気付かない程、あっさり通り抜ける。

だから、「箱根の山は天下の嶮」と歌では知っていても、どのような難所であったかは、到底想像の及ぶところではない。

しかし、江戸時代の人は徒歩でこれを越えた。

私はせっかく芦ノ湖に来たのだから、歌川広重の東海道五拾三次之内 箱根 湖水図に描かれている急峻な傾斜とは、一体どのようなものであったか・・・江戸時代の旅人になったつもりでほんの短い距離でも歩いてみたくなった。

 箱根町港から少し東へ進んだ場所に関所が見えた。

江戸幕府によって元和5年(1619年)に設置された箱根関所で、

右に山、左に湖という、通行を封じるにはこれ以上ない場所に置かれていた。

 「入鉄砲出女」で知られるように、江戸へ持ち込まれる鉄砲と、江戸から逃れようとする大名の妻女を厳しく取り締まった。

資料館に残っている女性の手紙には、手形があるにも関わらず、改め婆(人見女)に取り調べられ、恐怖だったという記録が残されており、いかに厳格であったか窺い知れた。

 幕末の名だたる志士たちも、シーボルトも、この関所を通っている。

オランダ商館付きの医師ケンペルも、商館長の江戸参府に同行し、箱根関所の様子を記録している。

(3月11日、三島から箱根に向かい)

この村(箱根宿)のはずれに将軍の番所があり、御関所と呼ばれ、新居の関所(静岡県にある)と同様に、武器を持ったり婦人を連れたりする旅人を通さないのである。

この場所を閉ざせば、西方の地方の人々は通過することができず、ここは江戸にとっていわば戦略上の要衝であるから、新居よりもはるかに重要な意義をもっている。

非常に狭い道の傍にある関所の建物の前後には、柵と頑丈な門が作ってあり、右手は険しい山が崖となり、左手は湖があって自然の要害をなしている。

…(中略)それから、われわれはまず村はずれにある、いま述べた将軍の関所にさしかかったが、日本人はみな駕籠や馬から下り、かぶり物をぬいで、人も荷も点検を受けた…(以下略)

参考資料「東洋文庫303 江戸参府旅行日記」ケンペル 著、斉藤信訳(平凡社)

箱根関所公式サイトより 

弥次喜多と歩く道

 関所を抜けると、元箱根に向かって国道1号線が伸びていた。

観光バスなどがひっきりなしに通る忙しい道である。

その脇に、ひっそりと忘れられたかのような、

昔の国道、旧箱根街道があった。

 一歩足を踏み入れた途端、土の匂い、木の匂いが鼻の奥をくすぐり、私は思わず小躍りしたくなった。

すっかり観光地化した場所に当時の面影は如何ほどかと危惧していたが、いやいや、なかなかどうして、

樹齢を重ねた大木がずらりどこまでも続き、木の大きさが、道の古さを証明するように、江戸時代の風情がそのまま見事に残されていた。

この杉並木は、徳川幕府が、旅人に木陰を与えようと、道の両側に植えた東海道で唯一現存する杉並木で、

現在は、国指定史跡として保護され、芦ノ湖周辺に約420本が残されている。

 さあ、ここからが本格的な坂の始まり。

古いゴツゴツとした石畳が、踏まれ踏まれて、踏まれた分だけ地にめり込んでいるかのよう。

私は東海道中膝栗毛に出てくる弥次郎兵衛と喜多八が、すぐ隣で、何やら可笑しく話しながら一緒に歩いているような、そんな愉快な気持になって、かつて最大の難所であった箱根越えの道をしばらく登ってみた。

万緑に眠る城

 城跡から富士を望もうと思った。

それが城好きの醍醐味とも思った。

元箱根からバスに乗り、進路を再び西へ、今度は三島方面へ向かう。

箱根峠を越えれば後はひたすら下り道。

その途中に日本100名城のひとつ、山中城跡はある。

 北条家によって築かれたこの城は他と一線を画している。

それは石垣が全く見られない土の城であること、そして堀が庭園のように美しいのだ。

だが、ときに美しさは薔薇のトゲに似ている。

障子の桟(さん)のように区切られた水堀、「障子堀」。

空堀の底を土塁で格子状に区切った畝堀(うねぼり)に、敵兵は限られた狭い道を進み、更には土塁を登らなくてはならず、大変攻めにくい、万全な構造となっている。

が、アリ一匹も通さぬような鉄壁を誇った城も、1590年(天正18年)約17倍の兵力を擁する豊臣秀吉軍に半日で落された。

現在は遺構を保護するため、芝を張り、樹木を植え、一面緑が眩しい公園だが、そういう歴史を秘めている。

 ところで、

ここから富嶽が見えるはずだったが、どうにも天候だけは逆らえない。

がそこは「また来る理由ができた」と、すっぱり割り切り、バスに揺られ三島駅へ向うことにした。

三島の郷土料理

 腹が減っては何とやら。

駅の近くに「ふじや」という郷土料理が食べられる店を見つけた。

三島は駿河湾に面していて魚が美味しいと聞いている。

そこで、まずは沼津港で水揚げされた

刺身の三種盛りから始めた。

また、三島といえば、

やはりうなぎも外せない。

産みたての卵にうなぎを巻いた「う巻」。

うなぎだから少しは生臭いのかと思いきや、そういうことはなくしっとりと上品な味わい。

続いて、なめろう。

ん?何だ。なめろうって?って思っていたら、

味噌で和えた魚のこと。

味噌で食する魚は初めてだったので、これも土地ならではの味と舌鼓を打った。

と、食べたことのない料理ばかりが続く。

だが一番驚いたのは、

笑っちゃうくらいに真っ黒な静岡おでんであった。

どんな濃い口なものかと思っていると、全然醤油辛くもなく、逆に程よい甘さのギャップに完全に虜になってしまい、また焼酎とも合うこともあって、たまらず追加を注文した。

ホテルへ戻る頃には、心地よい疲れと満腹感に包まれ、そのまま深い眠りについていた。

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