① 飛騨高山の旅 Day1|まだ知らない日本へ ― 金沢から白川郷、憧れの合掌造りを訪ねて

石川

旅は説得から始まった

 私が今回の旅である金沢から名古屋の南北縦断ルートを提案した時、家族の反応は冷ややかなものであった。


 最初に「平地1、山間部9」とでも言うべき、奥山を縫う行程だけを伝えたのがいけなかった。

大阪や京都などの有名な観光地ではなく、山深き日本の真ん中を、どうしてわざわざ3泊4日かけて出かける必要があるのか。

と、なかなか痛烈なもので、舌足らずにしては少し荷が重く、何度もひるみそうになった。

こういう時こそ、日頃の磨いたプレゼン能力を披露しなくてはと奮起したものの、やはり肝心かなめなところで発揮できないのが私である。

が、ともかくも旅行ガイド本と行程表を手に、懇々と熱意だけを伝え、何とか、かろうじてその熱意だけをもってテーブルの端にかじり付き、ついに、その形相に鬼気迫るものあり・・・と妙な賛同を得、今回の飛騨高山の旅に何とかこぎつけたという訳だ。

 だが、どんなに前評判が悪くても私には確固たる自信があった。

このルートこそ、日本の自然と文化を肌で知れ、口では説明ができない感動と満足が溢れる旅になると。

  ホームに京都駅8時9分発のサンダーバード5号が入って来た。

サンダーバードに乗るのは高校の修学旅行以来であった。

フォルムは似ていても、かつてのすっと横に引いた昭和臭の強い赤ラインはどこへいったか。

すっかり新しく様変わりした車両である。

それほど私にとって北陸は遠かったのだ。

 ところで、列車で旅をする時、旅情を誘うのが、大都会から田舎へと劇的な移り変わりを見せる景色だ。

トンネル一つ抜けるだけで、雑踏の中、スピードと情報を餓鬼のようにむさぼり求める世界は、一体どこに鳴りを潜めてしまったのかと、目をこすりたくなるような、新鮮なスローな世界が展開する。

その中を野風にでもなったような車体は、ゆるやかに傾けながら、

野を駆け、木々を抜け、鉄橋を渡り、湖西をただ北へ北へとゆく。

しばらくは蒼い海のような琵琶湖との並走が続くと、一度も停車をすることなく敦賀駅に着いた。

ここからは北陸新幹線に乗り換える。
修学旅行時の一日かけた行程は、もう過去の世界。

北陸新幹線は風を切るように走り、びゅんとわずか41分、10時前には金沢に着いていた。

 構内を出た瞬間、娘が誰に言われるでもなく駆け出した。

巨大な音なき鼓の威厳に、誘われたとも、惹きつけられたとも、吸い込まれたとも言うべきであろう。

音を奏でるのは誰か。

私たちにとって、今まさに鼓門こそが本格的な旅の始まりのゲートとなった。

角を曲がれば別世界

 私は角を曲がった途端、どこか異空間に飛び込んだのではないかと錯覚した。

それは、さっきまでどこにでもある灰色の街並みから、絵本の頁をめくったように、まるで別世界の町並みへと変貌したからだ。

 しばらく石畳の真ん中に立ちすくんでいたのは、町屋から続く木虫籠(きむすこ)と呼ばれる切れ目が入った格子と、景色を中心に放射状へ伸びる線の調和した様子があまりにも綺麗だったせいで、一気に異彩を放つ空間美へと呑み込まれた。

 金沢駅から南に約2キロ進んだ場所に、国の重要伝統的建造物群保存地区「ひがし茶屋街」が広がる。

茶屋街といっても、お茶を売ったり飲んだりするような場所ではない。

江戸時代末期に加賀藩から公許された芸妓の舞踊や三味線などの遊芸を楽しむ歓楽街のことである。

 「空から謡(うたい)が降ってくる」とは、

屋根の上や足場で働く大工や庭師が、能の謡を口ずさんでいた様子だが、これは加賀藩が庶民にも能楽を奨励したことで、広く文化が浸透したことの現れであろう。

茶屋街の保存地区指定は、京都の祇園に次いで2例目で、なにやら歩いていると、場所は違えども、新選組が路地からぬっと隊列を組んで出てきそうである。

日中は改装された町家を利用したカフェ、和菓子、金細工や九谷焼などの伝統工芸品、雑貨などを扱う店が軒を並べるが、

ひとたび弁柄色に染まった空が暮れてゆく頃には、観光客で賑わう通りも、三味線や太鼓の音が聞こえる別の顔へと変貌するのだ。

百万石を守り抜いた知恵

 加賀百万石と聞けば、前田利家が一代で築き上げたようにも思えるが、これには利家、初代藩主利長、二代藩主利常へと続く三代の代々続いた巧みな戦略と決断によって、百万石を盤石のものにしたからである。

 これらをぎゅぎゅっと短くまとめると、秀吉から秀頼の後見人とされた前田利家は徳川家康より常に警戒の対象であった。

利家が亡くなると、早速、利長に家康暗殺を企んでいるとの疑いが掛けられる。

ここでは、まつが江戸へ人質となることで難を逃れたが、やはり100万石を超える大大名となれば、幕府との緊張関係は尚続く。

利常の代でも大火で焼失した金沢城を修復したり、他国より多くの船舶を購入したことで、再び幕府から疑いの目を向けられたが、ここでも必死の弁明で虎口を脱した。

ちなみに、慶長7年に落雷で焼けた天守を再築しなかったのは、幕府からの警戒を少しでも弱める意図があったとされている。

そこで、幕府への恭順の表れとして、幾度も普請手伝いの命令を果たし、徳川家と婚姻関係を強め、親戚になることに尽力した。

この時代、広島の福島正則や熊本の加藤忠広など、多くの大名が改易されたにも関わらず、幕末まで百万石を保てたのは、こうした巧みな戦略があってこそだ。

 天下が平定された後、利常は経済を発展させることに重点を置く。

上方から職人を招聘、御細工所を設立。

漆器、絵付け、金工など、加賀独自の優れた工芸品を生み出し、現代まで続く文化・芸能を根付かせた。

この、他に無いものをつくり出し、強みに変えるという考え方は、今のビジネススタイルにも通じるものがあって大いに興味深い。

昔、「葵 徳川三代」という大変面白き大河ドラマがあったが、是非とも、知恵の限りを尽くした「加賀三代物語」も作ってもらいたいものである。

さて、娘。

どんなに白く重厚で立派な「葵櫓」も「橋爪門続櫓」も「五十軒長屋」も、

回転するスプリンクラーの水しぶきには敵わない。

すっかり私も巻き込まれ、頭からジーンズは勿論、靴先まで全身びしょびしょになったのは言うまでもない。

群青に魅せられて

 兼六園とは、加賀歴代藩主により、長い歳月をかけ造られた景観の理想とされる「六勝」を兼ね備えた庭園のことである。

(以下 「兼六園ホームページ」より抜粋)

六勝とは、[宏大(こうだい)][幽邃(ゆうすい)][人力(じんりょく)][蒼古(そうこ)][水泉(すいせん)][眺望(ちょうぼう)]のこと。宋の時代の書物『洛陽名園記(らくようめいえんき)』には、「洛人云う園圃(えんぽ)の勝 相兼ぬる能わざるは六 宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは 惟湖園のみ」という記述があります。

その伝えるところは、以下の通りです。「庭園では六つのすぐれた景観を兼ね備えることはできない。広々とした様子(宏大)を表そうとすれば、静寂と奥深さ(幽邃)が少なくなってしまう。人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(蒼古)が乏しい。また、滝や池など(水泉)を多くすれば、遠くを眺めることができない」そして、「この六つの景観が共存しているのは湖園(こえん)だけだ」と結ぶのです。すばらしい景観を持した庭園として賞された湖園。

兼六園は、この湖園に似つかわしく(ふさわしく)、六勝を兼ね備えているという理由から、文政5年(1822)、その名を与えられました。

 歩きながら、まず気付いたのは水が豊富に流れていることだった。

これが、先程あった曲水の豊かな流れを実現させた「水泉」のことだが、

さっきから私はこの水はどこからやってきているのだろうかと、そればかり気になって仕方がない。

理由を述べると、汗を掻きながら上った坂道の先の高台に、金沢城も兼六園も位置し、周囲を見渡しても、ここより高い山を見出すことができなかったからだ。

 後になって調べてみると、この場所は小立野(こだつの)台地と呼ばれる細長い河岸段丘の先端にあって、到底、水の届く場所ではないことが分かった。

それを三代藩主 前田利常が、

寛永9年(1632年)に、約11km南の犀川上流の金沢市上辰巳より取水し、導水トンネルを経て、町中の用水や、兼六園の曲水となる「辰巳(たつみ)用水」を造ったことで現在に至るのだ。

 広大な園内を気持ちよく飽かずに歩けたのは、美しい景色は勿論だが、園内に張り巡らされた水の流れが、心に染み入るように溶け込んだからに相違ない。

 加賀百万石の威光はまだ続く。

園の一番奥に、「成巽閣」(せいそんかく)という御殿があった。

内部の謁見の間や、万年青の緑庭園の美しさもさることながら、2階「群青の間~書見の間」の天井に塗られた弁柄の赤褐色と、ウルトラマリンブルー(ラピスラズリ)の群青色を合わせた斬新さに、私は思わず唸らずにはいられなかった。

ここだけ、これまでとは別の光彩を放つ空間が広がっているのだ。

あたかも、濃い夕焼けの茜を西の空に残しつつ、頭上は徐々に深くなっていく紺が混在したまさに、あの移りゆく情景の一瞬を捉えたかのような部屋を前にして、片時のつもりが、引き込まれ、溶け込んでしまいそうになり、娘に呼ばれるまで一歩も動けないでいた。

山深き飛騨を目指して

 車は高速道路に乗り、一旦、東へと向かい富山県に入る。

小矢部砺波JCTからは、四方広大な田畑を見渡せる平野を南下するのだが、平野はここまで。

眼前には青く波打つ山々が迫りつつあるのだ。

地理の授業でもあったように、ここから南の地形を色別標高図に表すと、遥か濃尾平野まで平地を示す緑はどこにもなく、濃い土色に更に黒を交えた焦げ茶色のゾーンが続いていたのが思い返される。

 トンネルに入った。

それはいくら走っても出口が見えない長いトンネルだった。

直線なのに本当に前に進んでいるのかしらとおかしな気分になった位だ。

寝息が聞こえる車内で一人、感嘆おくあたわず、凄いなぁとつぶやいた。

もし、東海北陸自動車道がなく、下道続きの旅であれば一体どうなっていたのだろうかと思うと冷や汗が出た。

当然、移動時間が長く、おのずと寄れた観光地は少なくなったはずだ。

 飛騨へ向かう道は行く手を遮る山、山、山である。

人喰谷という物騒な地名が残るように、非常に危険な難所で冬は雪崩が頻繁に起きる。

特に白川から高山へ向かう旧道は想像以上に険しい。

本来であれば狭く細い急勾配の天生峠を越え、目が回るような道を辿って、飛騨に出なければ高山には着かない。

ところが、日本で2番目に長い10.710kmの飛騨トンネルのお陰で、高くそびえ遮る山々の存在など、まるでなかったように向こう側に出るのだ。

 ちなみに、前後するが、岐阜県の約8割が深い山地で構成されているのを痛感した出来事が後日あった。

飛騨トンネルほど長さはないにせよ、郡上八幡から関市板取に向かう下道で出合ったタラガトンネルの存在だ。

速度が出ないのも手伝って、延々と走り続けている錯覚に陥り、ハンドルを握りながら本当に不安になった。

つまり岐阜県はどこを見ても山にぶつかった。

くどいようだが、山がそれだけ深い。

 話を元に戻す。

車は長大なトンネルを3つ抜け岐阜県に入り、18時前には最初の宿泊地である岐阜県大野郡白川村に着いた。

ほんの1時間半前に金沢にいたことを考えれば、心底、東海北陸自動車道の存在が有難いものに思えた。

子どもの頃の夢が叶った夜

 小学生の時、家に届いた市販教材の付録のことは今でも忘れない。

大人の手のひらサイズの発泡スチロールの屋根や壁、また細かく階ごとに区切ったものを丁寧に組めば、立派な合掌造りの家が出来上がった。

それが自分でもかなり満足した出来であったから、卒業するまで机の棚の上に大事に飾っていた。

勉強もせず見上げながら、世の中にはそういう山奥の雪深き場所に独特の文化があるのだと、日本昔話に出てきそうな、どこか現実離れした建物に、子ども心にいつかは行ってみたいと遠く憧れていたのだ。

 旅に出る前、金沢で一泊することも視野に入れていたのは、白川郷で周辺宿を探すも場所が場所だけにそういう施設が少なかったからだ。

だが、ふと、ひょっとして合掌造りに泊れるのでは・・・と頭をよぎった。

いちるの望みで検索すると、意外にも的中した。

しかし、2ヶ月前の予約であるのに夏休み期間とあってどれも満室で、それもそうかと諦めかけた時、空いている最後の1軒を見つけた。

思わず拳を天に伸ばし、慌てて確保したのだが、本当に予約できたのだろうかと、なかなか自分自身を信じることができず、その日は返信メールを何度も見返した。

こうした一切のあらましを、郷土料理を運んでくださった女将に一人興奮しながら伝えた。

 ここ民宿 十右エ門(じゅうえもん)は、およそ300年前の建物で、すすで黒ずんだ梁や柱がもの言わず歴史を語っていた。

1700年代の日本史といえば、江戸時代中期にあたる。

子どもの頃に夢中で組み立てた、あの付録そのままの建物に泊まれるのは何と幸せなことかと、部屋に戻ってもまだ興奮冷めやらない。

そんな私を見かねて、娘がカメラを向けてくれた。

撮り手の一時交代である。

部屋には元々テレビがない、でもそれが嬉しかった。

音があるとすればゲロゲロと鳴くカエルの合唱と流れる水音だけであったが、電気を消し、耳を傾けていると、不思議と昔からここに住んでいたような心持ちになった。

私の中の心の奥深くに眠っていた何かが螺旋の渦の中をゆっくり回りながら安らかになっていくようで、いつしか熟睡していた。

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