③ 夏の北海道を走る Day3|函館朝市からニセコの大空へ、小樽運河の夜を歩く

北海道

は~るばるきたぜ函館へ

 「は~るばるきたぜ 函館へ♪」 このワンフレーズしか知らないが、積年このフレーズをご当地で歌ってみたかった。

私が車内でこればかり連呼するので、ついには娘も一緒に歌う始末である。

 ところで、朝起きた時に分かったことだが、ロープウェイ山麓駅付近から見上げると、函館山は空に向かって、急にせり上がっているのが見て取れた。

わずか3分足らずで300mを駆け上がる中で見た景色の変化は、短くも濃い映画のようであったなぁ・・・と、昨日の興奮がまだ冷めやらない。

 3日目の最初に向かったのは八幡坂。

整然と街路樹が並んだ先に函館湾が広がっている。

この函館湾が、海産物交易の集積地として天然の良港となった理由、それは昨日登った函館山が大いに関係する。

 函館山はかつて島であった。

そこに流出した土砂で砂州ができ、陸続きとなり波風を防ぐ役目を担ったのだ。

ということは、現在の函館市は砂州の上に築かれた街となる。

函館朝市で、

海の幸を堪能した後、

金森赤レンガ倉庫を散策し、次なるは私の好きな歴史小説、司馬遼太郎「燃えよ剣」の最後の舞台となる五稜郭。

最後の武士

 幕末には大きく分けて二つの流れがあった。

一つは徳川幕府を倒し、新たな世をつくるという薩長を中心とした討幕派。

もう一つは、最後の最後まで幕府に忠義を立て護っていくという佐幕派だ。

 歴史ドラマには、どちらにも主人公があり、どちらの視点から見るかによって全く違って映る。

それは、西郷隆盛であり、大村益次郎であり、徳川慶喜であり、勝海舟であったりする。

函館戦争は、これより少し後の明治に入ってからの旧幕府軍と明治新政府軍との戦いであり、新旧交代を決定付けた戦いで、「燃えよ剣」は、新選組の鬼の副隊長と呼ばれた土方歳三を主人公にした旧幕府軍から見た小説である。

戦いの流れを簡単にまとめると次のようになる。

(五稜郭タワー パンフレット、Wikipediaより引用)

 旧幕府海軍副総裁 榎本武揚は、陸軍諸隊を収容した艦隊を率いて蝦夷地に渡り、五稜郭を占領した。 

明治元年(1868)12月、仮の政府を樹立し、徳川家臣による蝦夷地開拓の許可を求めるも、翌2年(1869)春、政府は征討軍を派遣して旧幕府脱走軍への攻撃を開始、函館戦争が勃発する。

圧倒的な戦力で攻撃してくる新政府軍の前に各前線、陣地は後退し、函館山を守っていた新選組は弁天台場へ逃げ込んだ。

それを知った土方歳三は弁天台場の救出に向かう・・・

「燃えよ剣」のラストは、覚悟を決めた土方歳三が、単騎、敵陣の中へ突撃し、官軍の一斉射撃を浴び絶命するという壮絶なシーンが描かれている。

 かくして、五稜郭は包囲され旧幕府軍は降伏し、幕末維新の動乱は終結した。

私は土方歳三が好きだ。

それは、ひたむきに最後の最後まで諦めない姿、全責任は自分が取るといった大将としての器、また、明治人になれない最後の武士の意地からくる悲哀に惹かれるのだろう。

 歴史は勝者によって語られることが多い。

しかし、勝敗だけでその全体像は見えてこない。

五稜郭は見事な星型をしていた。

戦いに散った主人公の勲章のように堂々としていた。

大地を駆ける

 3日目は一気に函館から北上、ニセコを経由し小樽へ向かう。

ところで、旅行前に、大変苦労したのがタイムスケジュールであった。

なんせ北海道は広大だから、どれくらいの移動時間が掛かるかが分からない。

いや、移動時間のおおよそは分かるのだが、移動時間に滞在時間の方のおおよそを足したトータルの時間が分からないのだ。

観光地の滞在時間ほど、どんぶり勘定なものはない。

だから、「ここには何分まで居ることができるよ」と最初に伝えるのだが、3人が3人、せっかくだからあとちょっと・・・と時間はどんどん押してゆく。

特にお土産屋さんでは時間が滑るように進む。

よって、昼ご飯は魚介系のスープがたっぷり入った函館塩ラーメンではなく、次の目的地ニセコでと、急遽計画を変更せざるを得なくなった。

 函館市内から北上を開始したのは正午過ぎ。

長万部を過ぎた辺りで高速を降りてからは、ひたすら下道となる。

下道になったとて信号はない。

ただ広い畑の間を抜け、白樺の林を過ぎ、丘を越え、国道5号線を、大地を縫うように走る。

ときに、昼食を取らず、一足飛びに走るのは訳があった。

娘にしてみれば当然だが、歴史や博物館など分かっていないし、興味もない。

興味があるとすれば、昨日のようなカヌーや温泉に入るなどの体験だ。

しかも、もう書くまでもなく北海道は広いので、チャイルドシートの中でうずくまっている時間が長い。

だから、大いに発散したいに違いなかった。

 そこで、高橋牧場で遅めの昼食を取った後は、20分程度であったが、

走って、

追いかけて、

登って、

一緒に大汗を搔いた。

そうこうしているうちに本日のメインである

予約していた16時30分のフライト時間がやってきた。

【ニセコ アイヌ語の「切り立った崖」に由来。

 カタカナ表記なのは、漢字をあてたが定着しなかったためともいわれる】

空の上の笑顔

 気球は思った以上にデリケートな乗り物であった。

直前まで、風があるので、もしかしたら飛ばないかもしれない。そう伝えられた時、素人はどこにそんな風が吹いているのだろうと、いぶかしげに空を見上げたが、プロのスタッフには見えているらしい。

約30分くらいの待ちがあって、GOサインが出ると素早く四方にロープが張られ、空気が温められる。

すると、さっきまで敷いたテントのように、ぺちゃんこだったものが、こすって出てきたランプの魔人のように突如私たちの前に雄々しい姿を現した。

ゴンドラに乗り込む時、球皮と呼ばれる袋の中の空気を維持するため、また重さのバランスを維持するため、前に乗っていた人と即座に入れ替わるように指示される。

大人六人、子ども一人が搭乗した。

娘は借りてきた猫のようにおとなしい。

ブボォォォォォ・・・と音を立て、勢いよくバーナーが火を吹き出した刹那、ふわり、音もなく浮き上がった。

それはまるでここに、重力が存在しないのではないかと思える程に軽々しく浮いた。

心底不思議であった。

小学校の頃、こうなることは理科の授業で習って知ってはいたが、今体験していることは、どうも理屈だけでは解決できそうにない。

まどろっこしい表現をすれば、外気と比べて比重が軽くなることで、生じる浮力で浮揚していることになるが、5歳の娘からしてみれば、おとぎ話の魔法の力で浮いているようなものである。

多分、これが正解だ。

ニセコの空の上で娘が笑った。

これだけで旅に来た目的が達せられたようなもの。

麗しき蝦夷富士

 ニセコのシンボルは標高1,898mの端麗な姿の羊蹄山(ようていざん)。

【アイヌ語で、マチネシリ(女山)ともいわれ、 マツカリヌプリ(後方に対をなして一方にある山)とも称される】

 写真だけ見れば、富士山と見間違えるくらい似ているため、蝦夷富士とも呼ばれる。

そんな雄大な姿を広大なジャガイモ畑から臨みたい。

と、かねてより思っていた。

ところが、ニセコに来てからずっと雲に覆われており、裾野が僅かに見えるだけで、あの辺りにあるのだろうと見当をつけカメラを向けてみるが、どうにも、思ったような画にならない。

気球の前に寄った高橋牧場のこの写真も、

本来であればトラクターの向こうに羊蹄山がドンと入る予定であった。

気球のスタッフさんも、夏場は大抵雲を被っているので見えないものだと言っていたので、それならば仕方ないと半ば諦め、ジャガイモ畑にフォーカスした。

 実はこの旅行を8月でもなく、9月でもなく、7月にしたのはジャガイモが関係する。

この時期に一斉に花が咲くのだ。

だから花と山はセットで観たかったというのが、そう再々来ることのできない、のっぴきならない私の本音であった。

しかし、360度見渡す限りのジャガイモ畑の風景自体、コンクリートの森に住んでいる私にとっては新鮮で、しかも点在する白が遠くになればなるほど重なる清楚な色は、絵画のようでもあり、また人がつくった最高傑作のようでもあったりと、これだけでも陶酔するに十分値した。

「あっ!お父さんあれ!」

不意にうわずった声がした。


 振り向けば、車の窓から体ごと こぼれそうな指先に、

雲の袖から、今までひたすら身を隠していた美しい天女が、何の気まぐれか、私たちの前に青白く透き通る衣をまとうて現れていた。

あぁ・・・

暫く心を奪われ動けなかった。

だが、次の瞬間、私は豆が弾けたように車に飛び乗り、エンジンを掛けると、夕暮れが迫る中、道道343号を急流下りでもするかのように走り出していた。

人はひとたび気になったら、手に取ったり、もっと近くで見たいと思うのだろうか。

恋をするに近かった。

 だがどうだろう。

やがて再びジャガイモ畑を見つけ、車を走らせた時、あれ程、麗しかった姿は美しい肌をすぅと隠すようにして、

手の届かぬ空の中へと、再び消えていってしまった。

郷愁

 車内はナビの音声に続いて「くっちゃん」と言うのが、ちょっとしたブームになっていた。

何故ならば、ナビが交差点の度に「倶知安(クッチャン)市街地方面を左へ」など地名を独特な響きを以って繰り返すからだ。

可愛らしいイントネーションと、誰かのニックネームのような響きが、ガッツリと娘の心を捉えたらしい。

【倶知安 アイヌ語の「クッシャニ」

(くだの(ようなところ)を・流れ出る・ところ)に由来する】

 車は函館本線に沿うよう北上を続ける。

平坦だった所も山道となり、稲穂峠を越えるとウイスキーで有名な余市、日本海にぶつかって90度右へ転換、荒々しい海岸線を約20キロ程 東へ走れば、しっとりとした橙色のガス灯に浮かび上がった運河の街。

 小樽運河の石畳を歩いて、はなはだ感じ入ったのは、レンガの建物とは、なんと味わい深いのだろう。ということだった。

樹木の年輪のように重なるレンガそのものが一つの時代を象徴しているようで、それらが水面に溶け込み留める景観は、どこか異国の絵画のような美しさだ。

(以下、小樽市ホームページより抜粋)

小樽港は北海道開拓の玄関口として発展してきました。

当時は、大きな船を沖に泊め、はしけ(台船)を使って荷揚げしていましたが、取り扱う荷量が多くなり、運搬作業を効率的に行う必要が出てきました。

艀が接岸できる距離を長くするために、海面を埋め立てることによってできたのが「小樽運河」です。

小樽運河は、大正12年に完成し、内陸を掘り込んだ運河ではなく、海岸の沖合いを埋立てて造られたため、直線ではなく緩やかに湾曲しているのが特徴となっています。

しかし、時代が変わり戦後になると、港の埠頭(ふとう)岸壁の整備により、その使命は終わりを告げることとなりました。

昭和61年、運河は、十数年に及んだ埋立てを巡る論争の末に一部を埋立て、幅の半分が道路となり、散策路や街園が整備された現在の姿に生まれ変わりました。
運河の全長は1140mで、幅は道道臨港線に沿った部分は20m、北部(通称:北運河)は当初のまま40mとなっています。

 ところで、ノスタルジックとは「郷愁を感じるさま」を指す言葉で、その「郷愁」は 他郷にあって故郷を懐かしく思う気持ちという意味らしい。

私にとっての小樽運河とは、古い実家で見た亡き祖父が、年季の入った背広に腕を通した凛とした姿であり、

また、背広を着た時に生じた匂いが漂う・・・

そんな場面を思い出させてくれる場所であった。

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