② 香川 Day2|空から眺める瀬戸内海の旅

香川

三たびのこんぴら参り

 前回、金刀比羅宮(ことひらぐう)に行ったのは、息子が高校受験前に行った6年前。

それ以前にも私が運転免許を取りたての学生時、友人2人と来たことがあるのだが、

双方とも、香川県はこんぴらさん以外寄ることはなく、早朝に垣間見ただけで、そのまま高知県に向かってしまった。

だから、3度目にあたる今回はこんぴら参りも含め、じっくり腰を据えての旅にしようと思った。

 金刀比羅宮は、古くから「海の神様」大物主神(おおものぬしのかみ)と崇徳天皇を祀った言わずもがな全国の金刀比羅神社の総本宮。

農業・殖産・医薬・海上守護の神として信仰され、江戸時代には「一生に一度は」のフレーズで有名なお伊勢参りと並び人気があった。

行けない当人に代わって代理参拝することもあり、森の石松が清水次郎長(山本長五郎)の代わりに参拝したことは有名である。

30年前に友人と来た時、森の石松に扮した格好をした写真が実家にあるはずなので、今後見つかれば、ここに載せてみようと思う。

ついでに、犬が飼い主の代わりに代参する「こんぴら狗(いぬ)」もあったそうだ。

とまれかくもあれ、久し振りの参拝だからといって、

石段785段に変わりはなかったが、

御本宮からの眺めは、

石段数以上に値する景観であった。

魂を洗う鐘の音

 弘法大師空海が御誕生された地、

また、四国八十八ヶ所霊場の第75番札所でもある善通寺は、和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師の三大霊場に数えられる。

 境内は東院と西院に分かれた広大なもので、伽藍と称される東院には、

天に届かんばかりの五重塔と、

厳かな雰囲気をまとった金堂。

仁王門を過ぎると、御影堂を中心とする西院が広がる。

御影堂では娘をぎゅっと抱えたまま戒壇巡り。

心の中まで響く鐘の音に魂が洗われるようであった。

石鎧の城

 丸亀城は標高約66mの小山に築かれた平山城である。

大手門付近から見上げた時、

緑に覆われた城といった柔らかい印象を持ったが、その甘い認識は、

見返り坂を抜けた所で砕かれた。

 緑のカーテンをめくって出てきたのは、石垣に覆われた紛れもない石鎧の城であった。

思わず唸ったというか、度肝を抜かれたのは高さと角度である。

上へ向かうにつれて傾斜を増す石垣は、どの面を見ても均一に整っていて美しく、故に「石の城」「石垣の名城」と形容されているのもごもっともと、

終始圧倒されっ放しであった。

 天守は全国で12しかない現存木造天守で、

階段は松本城、宇和島城に引けを取らず、まさに梯子を上るが如く。

その甲斐あって四方すべてを見渡せる最上階からの眺めは格別なものであった。

 ただ、惜しむらくは、

平成30年10月の豪雨被害により、帯曲輪西面石垣、三の丸石垣が崩落したことである。

歴史の一部が剥離したような生傷は見ていて痛々しい。

一刻も早い処置と復旧を願うばかり。

屋島は夕刻がいい

 屋島は夕刻がいい・・・

紅の光で空を染めつつ、島々や行き交う船を影絵のように浮かび上がらせる様は、あたかも一枚の金色屏風を観るかの如くいと美し。

 このような光景に出合えたのはひとえに娘のお陰である。

本来、丸亀城を出たならば、高松に移動しそのままホテルに泊まる予定であった。

しかし、旅の最中、公園を見つける度にずっと遊びたいと言ってくる娘を見かねて、3日目の最後にその時間を作ってあげようという話になった。

そうなれば調整が必要である。

急遽、3日目朝の予定を2日目に繰り上げ屋島にやって来たのだが、それが功を奏した。

 屋島は源平合戦で知られる場所だ。

源平合戦における屋島の戦いを起承転結で例えるならば、おそらく壇ノ浦の戦同様、結に当たるのではなかろうか。

色々調べていくうち、うどん県旅ネットに合戦の流れが分かりやすく書かれていたので、以下引用させて頂くことにした。

都を追われた平家は、放浪の末、屋島に拠点を置くこととしました。

安徳天皇と三種の神器を奉じた平家は、この地で再起を図ります。
やがて都奪還のため、一ノ谷(兵庫県神戸市)に兵を進めますが、源義経らに敗れ屋島へと撤退しました。
勢いにのる源義経は平家追討のため屋島を目指します。

ここに「屋島の戦い」とよばれる合戦が幕をあけるのです。

当時の屋島は完全な島であり、天然の要塞でした。

また、東側は庵治半島との間に大きく入り込んだ入江が広がり、海から攻めてくるであろう源氏を待ち伏せするには絶好の前線基地だったのです。

平家の拠点である屋島を目指し、阿波(勝浦)へ上陸した義経は、在地の武士近藤親家を味方につけました。

親家から、平家軍において四国での大きな戦力である田口成直(田口成良の子)の軍勢が伊予へ出兵していることを聞いた義経は、屋島が手薄であり、今が好機と判断しました。

また、当時の屋島はその名のとおり「島」であったため、通常であれば馬に乗っての攻撃は難しい場所でしたが、干潮時であれば馬でも攻め入ることができるほどの浅瀬になることを知っていました。

そこで、今しかない!と一気に攻め込んだのです。

屋島の対岸に数百艘にも及ぶ軍船を隠し、海路からの源氏の襲来に備えていた平家ですが、背後からの急襲・火攻めに源氏の大軍が襲来したとばかりにあわてふためき、辛うじて船で沖へと逃げます。まんまと奇襲は成功し、屋島は義経の手に落ちることになりました。

実は、このとき屋島に集まっていた約3000騎の平家軍に対し、奇襲をかけた義経方は約150騎程度であったとされています。
数字では圧倒的に不利な状況の中、義経は道中の民家に火を放ちながら進んだため、平家方は源氏の大軍と勘違いし、我先にと海へ逃れたと言われています。

日も暮れかけ両軍が引き始めたころ、海上の平家軍から一艘の船が近寄り、船上の女性が扇を射るようにとの仕草を見せます。
これを見た源氏軍の総大将義経は、自軍の中から扇を射ることができる武士を探すよう命じ、那須与一が的を射る役目を受けることを決意しました。

両軍が見守る中、扇が掲げられた船に与一は向かい、海面に突き出した岩の上まで馬を進めます。

狙いを定める与一ですが、そこは海の上。無常にも船は揺れ、扇の的も右へ左へと狙いが定まりません。

与一は近くにあった岩に一心に祈ります。

すると波は静まり、船の揺れも止まります。この時とばかり、与一は狙いを定め弓を放ちます。与一の手から放たれた矢は、扇の的をめがけて一直線。見事に扇を射抜くことができました。

その瞬間、敵味方を問わず両軍から歓声が沸き上がりました。

 屋島山頂の西側に展望台があった。

隣の飲食店でイベントがあったらしく、多くの人がグラスを片手に度々建物から出ては、広がる景色にうつつを抜かし、または感嘆していた。

その目線の先には、本日の最後の締めくくりにふさわしく、

秒ごと濃くなってゆく夕陽が、

瀬戸内海に、ゆっくりゆっくり静かに沈んでゆく。

やがて最後の光が海に溶けた時、わぁ、と800年前の再来であるかのような大きな拍手と歓声が沸き起こった。

屋島は夕刻がいい・・・身にしみて感じた。

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