鐘の鳴る駅
日本には数え切れない程の駅がある。
その駅にも役割があり、中でも函館、敦賀、門司港などは船と連絡する駅として、また人や物資が行き交うターミナル駅として多くを運び続けている。

小樽駅も、その一つで、1904年(明治37年)に開業し、今も北の玄関としての役割を担い続けている。
駅の外にひときわ目立つ鐘があった。
吸い寄せられるように近付くとプレートにはこう書かれていた。(一部を抜粋)

この「むかい鐘」は明治から1965年頃まで列車到着の予報として打ち鳴らした。
上り列車には二打、下り列車には三打と決め、鐘を鳴らした後十数分で列車が到着した。
人々は、いっぱいの荷物を担いでホームに急ぎ、出迎えの人や行商人で活気に満ち、旅のすべては、この鐘の音を聞くことから始まった。
「いやさ、目の前に紐があるならば引っ張りたくなるのは心理てぇもんよ」
口には出さないが、3人ともそういう顔をしている。
最初に相方が紐を引っ張ってみた。
「カーン・・・」と想像した以上のかん高い音に、二番手で控えていた娘は、一瞬ひるんだかに見えたが、そこは好奇心旺盛という私の血を引いているだけあって、満を持したように、列車到着3本分を元気に鳴らしていた。

私が小樽駅の入場切符を購入してまでプラットホームに入りたかった理由。
それは通称「裕次郎ホーム」と呼ばれる4番ホームにある。

由来は、かつて番組ロケで、このホームに降り立ったことにあったが、私は世代でないので、正直あまり裕次郎さんを知らない。

知らない癖に、こういうことをしてしまうのは、好奇心旺盛なオヤジの血を多分に漏れず、引き継いでいるせいであろう。
始発である9時36分俱知安行きの列車が、

レトロな駅名看板の横を汽笛を鳴らしながら、ゆっくり通り過ぎていった。
この古い看板の下を何人の旅人がくぐったのかを思った時、

言い知れない感情が、胸の奥から沸き起こってきた。
石炭が動かした街
小樽駅から続くゆるやかな坂道の先にキラキラと青い海が光っている。
駅から海までは500mしかないので、駅を降りればすぐ海と言っても、さして大袈裟な表現ではない。
地図で見ると、小樽は三方を山で囲まれ、ぽっかりと北にだけ口を開けている格好だ。

つまり、猫の額程の陸地を最大限活用した海辺の街ということになる。
だが、ここにかつて日本の物流供給の中心があった。

(小樽歴史レリーフより)
江戸時代からソーラン節で有名なニシン漁が盛んであったこと、本州との交易船である北前船の寄港地であったこと、それに伴い埋め立てを繰り返し、海岸が整備されたことが功を奏し、特に明治から昭和にかけては、北海道から産出される石炭搬出港として栄えに栄えた。
そうであった痕跡はGoogleマップからも読み解くことができる。
駅と海の中央辺りを横断するように薄い緑のラインがあるのだが、これは1880年(明治13年)に手宮~札幌間に開業した北海道初の鉄道である官営幌内鉄道の痕跡で、幌内炭鉱から産出された石炭を運搬すると共に、北海道開拓を目的とした。
今は廃線となり1600mの散策路として、

小樽版のスタンドバイミーを楽しむことができる。
この線路を西へ辿っていくと、北海道鉄道の発祥の地である旧手宮駅跡。

現在は小樽市総合博物館として、主に鉄道の歴史を展示している。

さて、旧手宮駅まで来た石炭車は、海へと延びた手宮高架桟橋と呼ばれる長さ313m、高さ20m、幅23mの桟橋上へ運ばれ、

停泊する船舶に石炭を直接落とし込むという画期的な方法で、

1944年(昭和19年)までの間、その石炭はSLは勿論、鉄鋼業や石炭化学工業などを支える膨大なエネルギー源となり、

エネルギーの主役が石炭から石油へ移ると、今では往年の人々の息遣いを感じることができる景観の街として変貌を遂げ、世界中から観光客が押し寄せてきている。
かくいう私もその中の一人。

その一杯のために
話は前後するが、4日目に限らず、食事はどこへ行っても地元ならではの食材に溢れていた。
洞爺で食べた

スープカレーの具材もそうであったが、

特に函館、小樽などは地理的なこともあってか海の幸が豊富で、

娘は朝から大好きなイクラが食べられるとご満悦であった。
小樽駅すぐ西側にあった三角市場でも、

意気軒昂で、食材の魅力もさながら、それ以上の活気が人を惹きつけているようだった。
さて、ここからは冒頭から続けて、北海道ならではのグルメについて歴史も交えて書き残そうと思う。
14時前に小樽を出発した我々は、旅の最後の目的地である札幌へ走り出した。
ハンドルを握る私は、きっとホクホク顔をしていたことだろう。
何故ならば、午後からはサッポロビール博物館で、現行のビールと復刻版ビールの飲み比べができるプレミアムツアーを予約しておいたからだ。
ところがだ。
問題が起きた。
海岸が見える高速から札幌市内中心部に入ると景色は一変。
これまでのどかであった風景はどこへやら。
大イチョウの木ならぬ、ずらりビルと信号が立て続けに並ぶ大都市へと突入した。
つまり、碁盤の目に区画された中枢部に飛び込み身動きが取れなくなったのだ。
私の心境からすれば、寸分違わず整然と並んだ碁盤の目も、今やクモの巣のように絡まってくるようで、余裕だと思っていた15時30分の予約時間が、かなり怪しくなり焦ってきている。
それでも車を地下駐車場に入れると、ロケットのように地上に出て、すぐさまタクシーを捕まえ、宿泊するホテルの前で事情を伝え待機してもらい、ホテルでは団体客のチェックイン列を時計と睨めっこしながら何とか済ませ、それからは雪崩のようにタクシーへ飛び乗った。
こうなると頼もしいのは運転手さんで、「ここの右折の信号は必ず引っ掛かるのであえて真っ直ぐ進みます」と交差点を突っ切ると、勝手知ったる路地へ入ってゆく。
その後ろ姿はハリウッドの映画スターよりも格好がいい。
タクシーから降りると、ただひたすらに駆けに駆け、間一髪、1分前に滑り込むことができた。

北極星の旗印
本格的な近代開発が始まる以前の北海道が、近代化へと急速に進んだ大きな理由、それは強大な軍事力を持つロシアの侵攻を日本政府が恐れたからだ。
これにより富国強兵が急務となった。
明治2年(1869年)防衛と開拓を目的にした機関「開拓使」が置かれると、当時、北海道開拓次官であった黒田清隆はこれまでの従来の方法にはない、海外から取り入れた近代農法、近代産業を導入すると決め、アメリカから指導者として、ホーレス・ケプロンを招く。
ケプロンは開拓のほぼ全域に渡って進言し、農業でいえば北海道と気候が同じ、北米型農法を採用した。
そんな中、ケプロンの部下であるトーマス・アンチセルが、道内の岩内で野生のホップを発見し、北海道の作物は、「食料となるもの」「貿易可能なもの」の植物を植えるべきである。との提言に、黒田清隆は大いに賛同し、「国造りとは、付加価値をつける産業をつくること」作物が根付き、人を雇い、外国へ売ることにより外貨も稼ぐことができる。
つまり、例えば、大麦やホップを栽培し、そのままを輸出するのではなく、その先の工程である国産ビールを製造・販売することで、付加価値をつけ、雇用を発生させ、経済をつくろうというのだ。
ちなみに、ジャガイモ・タマネギ・麦・トウモロコシ・リンゴなどの生産もケプロンの奨励でこの時から始まる。
また、同時に日本は文明国の仲間入りすることも急務としていた。
当時は欧米と同じ国内体制の水準と認められなければ、他国と対等に同盟を結ぶことなど不可能であったからだ。
このため、鉱山の開発、鉄道設置が進められ、製糸、製糖、製麻、葡萄酒醸造、味噌、醤油醸造、缶詰製造などの官営工場の設立が相次いだ。
麦酒醸造所もそのうちの一つである。
ここで登場するのがビール醸造人、中川清兵衛だ。
17歳で命懸けでドイツへと密航したものの上手くいかず、ドイツ人の家でボーイとして働いていたところを外交官、青木周蔵に見出され、ベルリンのビール工場で技術を習得することになる。
そして帰国後の明治9年9月23日「開拓使麦酒醸造所」は産声を上げた。
これは同時にサッポロビールの歴史の始まりともなった。

開業式の記念写真に、ビール樽に文字が書かれてあるのが見て取れる。
右上から縦読みすると、
「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒になる」

酵母が発酵せず、工場の稼働が遅れたりなどの試練を重ねながら、ついに完成した国産で初のビールは、「札幌冷製ビール」と名づけられ、1877年9月に東京で発売された。
この時の中川らの心中を察するならば、自然と熱いものが沸き上がってくる。

後に官営ビール事業は民営化され、譲渡、合同など様々な経緯を辿り、現在のサッポロビール株式会社となる。

こういった歴史物語をシアターで観て、また、ガイドさんの説明を受けた後となると、創業当時の「復刻札幌製麦酒」の味は格別なものとなった。

ところで、

ラベルに描かれる星型のマークは北海道開拓使のシンボルである北極星だ。
北極星とは、言えば更なり、昔から天に堂々不動の輝き、迷わず進むべき方向を指し示す目印。
ビール博物館や、時計台、北海道庁赤レンガ庁舎などの歴史的建造物にも、札幌の象徴として今も輝き続けている。
この旗印あってこそ、日本は文明国として欧米と肩を並べるまでになった。
だが、開墾した人たちの苦労があって、今の北海道があることも忘れてはならない。
大変厳しい環境の中、30年間で4万人の屯田兵が移住し、塗炭の苦しさを味わいながら総面積7万haという途方もない広さの土地を開墾した。
そう考えるならば、赤い五稜星は、新しい時代を開拓した人々の希望と情熱を現代に伝え、受け継がなくてはならない誇り高い象徴ともいえる。
参考
「サッポロビール博物館 歴史物語シアター」から記憶の限り
「【映画本編】日本のビールを作った3人の物語…「日本の麦酒歴史(ビールヒストリー)」」より引用
酔っ払いの特権
にょっきと煙突が空に向かって伸びていた。

この赤レンガ造りの建物は元はビールの原料となる大麦を麦芽にする製麦所で、現在は向かって左が博物館、右をサッポロビール園 開拓使館として使われ、

1890年の竣工以来、当時を色濃く伝える建造物として現存している。
そんなレトロな雰囲気の中、

限定ビールと、

ジンギスカンを心の底から堪能した。
この陽気な気分をどう表現するのかが難しい。

例えるならば、「お~い北海道」のサビを延々と歌っている感じだ。
予定通りというか、

予定通り、すっかり出来上がってしまった。
本来であれば、旅の疲れもあろうからホテルに帰ってゆっくりと思っていたが、気が大きくなれば、当然、計画は変更される。
計画というものは変化に対応することも含めて計画なのだと、屁理屈も理屈にしてしまう。
酔っ払いの特権である。

実のところ、私は衝動的に夜景が見たいと思ったのだ。
大抵、痛飲した後で翌朝まで残るものは頭痛と後悔だけなのだが、今回は後悔ではなく思い出を残そうと思った。
相方と娘の了解を得ると、タクシーは青から群青、紺へと次第に変化する空の下を、陽気な3人を乗せて走り出した。
香る絨毯
藻岩山ロープウェイ山麓駅のモニターに映っていたのは、雲か霧かどちらかはっきりしないが、とにかくモヤがかった展望台の様子だった。
これはもしかしたら、夜景を見るつもりで上っても、何も見えない可能性が高い。
そこで、このことを運転手さんに相談してみると、藻岩山ほどの高さはないけれど、お勧めの良い場所があるということで、連れて行ってもらうことにした。
坂道をぐにゃぐにゃと上がると、色鮮やかな宝石を散りばめたように光を放つ札幌の町並みが広がった。

ちょうど連休中とあってか花火が上がって風景に色を添えている。
夜景の美しさにも驚いたが、もっと驚いたのは足元に広がる紫一色の絨毯であった。

私たちは運が良かった。
この場所は「幌見峠ラベンダー園」といって、7月上旬から下旬の開花期にだけ見られるラベンダーと合わせて夜景が観れたのだ。
だが、更に私を驚かせたのは、ラベンダーはラベンダーの香りであったことだ。
芳香剤として使用される少しきつめの香りというイメージであったが、実物を知らない私は既製品を誇張された匂いだと思っていた。
鼻を近付けてみると、かぐわしく、甘ささえも感じる。
私にとって、それは小さくも忘れられない発見だった。





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