娘が選んだ名湯の宿
4日目の朝は鉄橋を渡る高山本線の音で目が覚めた。

昨晩から滞在している「望川館」は創業1818年の老舗旅館で、宿泊決定権のある娘が選んだ。

その名の通り、東西を流れる飛騨川がよく見え、下呂温泉が狭い両岸に点在するのが、はっきり分かる場所であった。
よく考えなくとも、娘が何も景色や湯の効能で選ぶはずもなく、

旅前に見せたロフトベッドルームの画像で即決した。
かつて私が木の上に住みたいとか、ロフトベット自体に願望があったように、娘もそれに似た衝動に駆られたのであろう。
到着すると、飛び付くように立て梯子を上がっては下りたり、穴をくぐり抜けることを繰り返した。
私も促され、仕方がないなと口では言いながらも、少年に戻った感覚で、頭や腰をぶつけながら一緒に興じた。

さて、下呂温泉。
ここは室町時代に万里集九が、有馬や草津と共に「三名泉」と絶賛し、江戸時代には林羅山も「天下の三名泉」と記した。
当然ながら、それぞれ名泉と呼ばれるだけあって特徴がある。
有馬温泉は未だ訪れたことはないが、調べるところによると、金泉(含鉄強塩泉)と銀泉(放射能泉・炭酸泉)があり、湯の色と効能が違う2種類を楽しめるのが醍醐味らしい。
草津温泉は驚くほど熱く、刺激的というより、もはや過激で、

入る前と後の違いがはっきり感じられたpH2.1の強酸性の湯には、常に温泉人気上位にあることを、すべすべになった自分の肌を以って証明させた。
では、下呂はどうであったかというと、これも分かりやすかった。

河川敷の自噴する足湯でも体験したが、無色透明でpH値9以上の極めて高いアルカリ性の湯は、肌の古い角質を取る働きがあるとされ、まるで葛湯の中に浸かっているかのように、とろとろで、やわらかく、なめらかで、手で掴もうとすると、ぬるっとし、私のような鈍感な者でも、心から歓声を上げざるを得なかった。
水底に現れた城下町
下呂からそのまま南下すれば、最短距離で濃尾平野に出られるものを、わざわざ西へ大回りさせたのは、水の清らかな流れだったり、日本最古の木造再建城などの魅力もありはしたものの、それより何より漢字を見て思わず口で発したくなる「郡上八幡」(ぐじょうはちまん)の地名の響きに惹かれたからだ。
旅前の慣れないうちは、どう読むのかと一瞬戸惑うようであったが、再三目にするうち、まだ行きもしないのに何故だか自然に愛着が沸いていた。
時に、旅における初めて訪れる町というのは、最初にどう目に飛び込んでくるかで印象付けられることが多い。
郡上八幡の場合はこうだった。

256号線を川の流れ、車を浮かぶ木の葉に例えるならば、つい今しがた、穏やかで緩やかな流れに乗っていたものが、突如現れた断崖絶壁ともいうべき、つづら折りの滝に呑み込まれ、もみくちゃになりながら、気が付くと水底に郡上八幡の町が広がっている。
そういった光景として映った。
町の中心に据わるのは、吉田川と小駄良川を天然の堀とした郡上八幡城。

古くから、積み重なる緑を意味する「積翠城」(せきすいじょう)とも呼ばれる。
何を隠そう先刻の堀越峠で寸時ではあるが出合っており、あれがテレビや雑誌で取り上げられる早朝の雲海に浮かぶ青き城かと思ったが、その時私はハンドルさばきの真っ最中で、停めて眺める余裕などありはしなかった。

それでも滝のような急坂の遠方からの眺めは、瞬きをする間であったとしても深く印象的に映り、名実ともに積翠と呼ぶにふさわしく、私としてはこちらの呼び名の方が好きだ。
残念ながら明治初年に石垣を残し取り壊されてしまったため、現在の天守は大垣城を模して建てられた木造再建城だが、人々の愛が詰まった昭和初期の建物は貴重で、今では日本最古のものとなっている。

それらしく踏む度にギシギシと城内に音が大きく響き渡り、不意に、私が通っていた建て替える前の下松小学校や中学校を思い出させた。

天守からの眺めは屈指の美しさで、瓦屋根の街並みを全体的に見ると魚の形をしていることが分かる。

8月の風、午後の風、山頂の風・・・
それらがいっぺんに西から東へと涼しい風として吹き抜けていき、いつまでもここに居たい気持ちにさせた。
水と共に
郡上八幡は水と共にある。
と、思わざるを得なかったのは、少し散策しただけで、すぐに川や水路に当たったためだ。
吉田川、小駄良川、長良川が合流するこの地は、どの大通りも、どの小路も、歩けば清々しい水の匂いがした。

御用用水は、寛文年間(1660年頃)に城主の遠藤常友が防火の目的のため、城下町に4年の歳月をかけて築造、下御殿や家老屋敷などにも水を供給し、それに並行するように流れる柳町用水は、各家々が持っている堰板をはめ込み水位を上げ、洗い物に使用するなど、生活に溶け込むよう流れていた。

宗祇水(そうぎすい)は、「日本名水百選」の第1号に指定された湧水で、これも上から飲料水、米などの洗い場、野菜等の洗い場、食器等の洗い場と続き、暮らしに深く根付いていたことを今に伝えている。
郡上八幡の子ども達は、

比較的流れが緩やかな小駄良川で、歓声を上げながら育っていき、次第に泳ぎの上達した者が、

高さ約12mもある新橋から吉田川へと飛び込む。
これは、この地で生まれた者の一つの通過儀礼のようなものらしく、多かれ少なかれ、飛び込んだ者は度胸を示すことで、郷土愛をより深めていくのだという。
私はこの光景を見ながら、この町は、ただ水が綺麗というばかりではなく、水を愛し、水と共に暮らし、感謝することで成り立っているのだと思えた。

よく歩いたのでお腹が空いた。

宗祇水の近くにあったお店へ涼を求め、水の中にでも飛び込むように暖簾をくぐった。
相方は至極当然とばかり蕎麦を注文したが、

私と娘はお品書きに見つけた飛騨牛丼を、これまで食べたことがなかったことに気付き、湯気立つご飯と共に、思わず声を上げながら頬張った。

そしてこれを飛騨最後の思い出の味とした。
光が描く池
これは後でブログを書く段になって知ったことだが、クロード・モネの描いた名画「睡蓮」は、フランス、ジヴェルニーの邸宅にある「水の庭」を写した連作である。
連作だから1枚だけではない。
1890年から晩年までの約30年間に制作された数は250枚にのぼり、周囲の植物を入れた遠景から、水面のみを切り取った近景など、様々な時刻によって移り変わる光模様を巧みに表現した。
岐阜の山奥にそんなモネが愛した景色を彷彿とさせる池があると聞いた。
池の名を「名もなき池」という。

ことさら絵画など美術に対し造詣が深い訳でもない私でもモネの名前と睡蓮だけは知っていた。
が、久しくその絵を観ていない。
ひょっとすれば美術の教科書を閉じたきりではなかろうか。
そんな怪しい記憶と照らし合わせにやって来たというよりかは、絵画のようといわれる美しい風景を観に来たが本音である。
狭長な池のほとりに立ってみてすぐに、あぁこれは絵具色だと思った。

水が鮮やかな青緑なのは、湧き水の透明が故だろうか、
それとも繁茂する周囲の緑を映し込んでいるからだろうか。
単に青とか緑とか単色で表現することができない重なった深みのある濃淡が、視界いっぱいのキャンバスに、しっとりと色を落としていた。

ここで私は不思議な体験をした。
それまで絵画を照らしていた光がさっと白い雲に遮られると、色がぼうっと淡くなり、

途端にさっきまで受けていた印象を幻想的な世界へと一変させてしまったのだ。
絵が差し替えられたのかと思った。

私は息を呑むのと同時に、この変化した体験そのものを残そうとして、雲間から太陽が出る前にと、何枚も夢中になってシャッターを切った。
よって、旅の中で一番多く撮った写真は、この場所である。
車を川沿いに走らせる中、それにしても「名もなき池」とはよく付けたなと風景を思い返しながら感心した。
まるで絵画の題名のようだ。
意図せず生まれたこの無名の池は、今や誰もが知る有名な池の名になっている。
最後の入場者
ついに長く細く狭かった山中の道を抜け広い広い濃尾平野に出た。
常に両脇に山を抱えて走っている感覚だったので、ふわっと視界が広がった瞬間、川から大海へ漕ぎ出たような解放感がした。
同時にどの方向へでも進める自由を手に入れた気にさえなった。
さて、いよいよ最後の目的地であり、旅の総仕上げである犬山城へと向かうのだが、すんなり到着した訳ではなく、ちょっとしたドラマがあったので書き残す。
これまで旅は順調そのものであった。
だが通称 モネの池で30分のつもりが、1時間も滞在したことで時間が押しており、16時半には入場しないといけないという気ぜわしさの中、ナビが示した到着予定時刻は、こちらの意も介さず、のんびりした数字を示した。
更には犬山城に近付くにつれ、車が多くなっていき、ふと、もしかしたら間に合わないのではという考えが頭をよぎった。
すると、現金なまでにさっきまでの、のどかな道が懐かしく思えてきて、なかなか進まない、もどかしさに焦りを覚えた。
かの城に行った人ならば知っているように、
駐車場から出てすぐ目の前に構えている訳ではなく小山を目指さねばならない。

着いたのは5分を切ったところであった。
車から一斉に飛び出し、走り始め200m進んだ所で、あろうことか、私は車にキーを掛けたかどうか確認したい衝動に駆られ、2人を先に行かせ引き返してしまった。
確認して駆け出したものの、坂道の全力疾走は旅の疲れも重なって速度が出ない。
心臓が大きく鳴る音が自分でもよく聴こえたが、せっかくここまで来て諦めたら勿体ないと鼓舞し、足が絡まりながらも、なんとか先に相方がチケットを購入してくれたお陰で、際どくも私はこの日最後の入場者となることができた。

残るべくして残った城
門をくぐると、望楼型三重四階地下二階の威厳ある天守が姿を現した。

国宝 犬山城。
私はかねがね、この城が現存する12天守の中で最も古い理由は何なのか。
また、全国に散らばる名のある城が数多ある中、どうして、こんなにも小振りな城が国宝五城の中に選ばれたのか。
など、ふわりとしたものはあったにせよ、明確な答えを持ち合わせていなかった。
が、百聞は一見に如かず。
この地に立って初めてこれら疑問の答えを見出せたような気がする。

濃尾平野の北東に位置する犬山城は、大きく地図を広げてみると面白い。
東から見れば、飛騨川が木曽川と合流する地点から、約13km下流にあり、西から見ると、横一本の線上に関ヶ原、大垣城、岐阜城と東端にある。
今度は南北で見ると、現在も県境だが、この木曽川を城のある南側を尾張、北側を美濃の国境とし、
木材の集積地の役割を担う水運、そして中山道、木曽街道に通じる交通とする要の地に位置することが分かるのだ。

故に信長、秀吉、家康の三英傑から攻められるべくして攻められた。
一度目は、織田信長による尾張統一の総仕上げによるもの。
二度目は、秀吉軍から小牧・長久手の戦いの口火を切った戦い。
三度目は関ヶ原の戦いの前哨戦で徳川軍が城に入ったことで計三回も落城した。

だが、いずれも焼き払われたり、廃城にならなかったのは、
それだけ軍事において、抑えなければならなかった拠点であることを示しており、何一つ、壊さなければいけない理由がなかったためだ。
なるほど、古いはずである。
更には廃藩置県でも取り壊されず、震災をくぐり抜けたのはまさに奇跡だ。
この2点が現代まで残った理由として、大きく占める部分ではなかろうか。
結果から見れば運命的でもあり、残るべくして残ったともいえるだろうが、
それだけではないと思う。
何より愛すべき城を守りたいという計り知れない人々の尽力があったからだろう。
つまりは城の規模の大小ではないのだ。

国宝 犬山城。
室町時代から日本の歴史を見続ける稀有なる存在として今も木曽川沿いに立ち、
戦略的な役割を終えた後は人の心で立ち続ける。

水を辿る旅
旅の前に考えたコースは何通りもあった。
金沢から白川郷、高山、奥飛騨を抜け、松本、白馬を回って金沢に戻るルート。
または、黒部から白馬、富山、能登を回り再び金沢に戻ってくるルート。
いずれも石川、岐阜北部、長野北部、富山など北陸を徹底的に堪能するものなどであった。

だが、最終的に日本海から太平洋に抜けるルートにしたのは、本心をさらけ出すと、日本地図を広げ、本州の真ん中に折ってできる縦線を一度辿ってみたい。
という私の切なる願望から出たもの以外何物でもない。
ところで、これは旅前には気付かなかったことなので自分でも驚いているのだが、ほとんど3泊4日中、山に籠るような行程であったため、これは毛深い木々ばかりを見る旅になるぞと覚悟していた。
が、実際は山を巡ったようで、知らず知らずのうちに水に引き寄せられ、水が流れる場所を巡ったことに気付かされたのだ。
兼六園に流れる水、白川郷、高山の用水路、奥飛騨、下呂の温泉、名もなき池の湧水、郡上八幡、犬山の飛騨・長良・木曽川の流れなどである。
人は結局のところ、水が豊かに溢れる所に集まるのだと思った。
そして、心の中まで清々しくさせる囁きに似た音に癒されるのだと思った。
今、旅を終え、ちょっとずつ消化し始めてはいるものの、興奮はまだ冷め切ることはない。
心の原風景に、懐かしい故郷に、3泊4日帰省してきたような気持ちである。
旅前に一度行けば良いかと思っていた安易な気持ちさえも、次回は季節を変え、ゆっくりと列車やバスに揺れ巡ってみたいなと思い始めている。
白川郷の屋根に積もった雪景色、紅葉で真っ赤に染まった郡上八幡も良いだろう。



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