瀬戸大橋を渡り、香川へ
広島で暮らしながら、私は瀬戸内海を知っているつもりでいた。
だが、その姿は思っていたよりずっと奥深かった。
瀬戸内海は世界屈指の多島海である。
東西およそ450kmの中に700余の島々で構成されており、その美観に魅力を感じた観光客が国内外から押し寄せてくる。
このような事実も、変わらぬ生活風景の中に浸かっていると、いながらにして気付かないものらしい。

だから、新しいシャツを着たような気持ちで、自分の手で触れてみたり、角度を変えてみたり、わぁ・・・と感動することで、おぼろげな姿が浮かび上がり、ようやく全体像が見えてくるものなのだろう。
つまり、私は瀬戸内海を知っているような顔をしていながら全然知らないのである。
今回の旅は、これらを補うために空からの視点で広くを眺めてみようと思った。
そうすることで、有難くも私の棲む場所がいかに美しい所であるかの一端を知るきっかけとなった。
香川県の大部分は、海の領域が広く島が少ないのが特徴の「灘」ではなく、島と島とが隣接し水流の早く狭い海で構成された代表的な「瀬戸」の地形である。
そこに架かるのが瀬戸大橋。
4年前に松山を訪れた際は、しまなみ海道を通った。
この時は島々を縫うように蛇行するように、または飛び移るように渡った印象だが、瀬戸大橋は違う。

向こう岸が見える程、ほぼ真っ直ぐで、とりわけ海の上を渡っている感が強い。
東は小豆島などを有しその先は播磨灘、西は塩飽諸島が浮かぶのが見え、空の青と海の青の間に島があることで、ようやく境界を知るようであった。
また、現代の技術によって、先人たちの夢の上を走っていると思えば、感慨深いものが込み上がりもした。
渡り終え、最初に私たちを迎えてくれたのは飯野山。
別名を讃岐富士とも言う。
娘に言わせると「ゼリーをひっくり返してできた山」らしい。
そう言いたくなるほど、美しい円すい形をしていた。
あまりに特長ある形だから、旅全体を象徴する気がして、帰る時も娘がバイバ~イといつまでも惜しみながら手を振ったそんな山であった。
さて旅は始まったばかり。
この山の麓に坂出ジャンクションがあり道が東西へと分かれてゆくのだが、私たちはハンドルを右へ切った。
香川県を西から攻めていこうという計画である。
天空のブランコで空中遊泳
坂出ジャンクションより西へ約50km、観音寺市に天空のブランコはあった。
旅の前、娘にここを紹介する写真を見せたら、
「絶対ここに行く!」
と頑として譲らなかった。
子ども心をくすぐって、どうしょうもないのだろう。
仕方がないなぁ・・・と旅程に組み込んだ。

ロープウェイによる約7分間の空の旅を終え、歩るけば、5月らしいすがすがしい新緑の木々の道。
さっと青空が開けた場所こそが、標高920mの雲辺寺(うんぺんじ)山頂公園であった。
もうどうにもたまらない!
と駆け、

飛びつくようにして漕ぎ出した娘。

と私。
作りたてのような空気を胸一杯に、瀬戸内海を一望しながらの空中遊泳。
振り子が頂点に達する度に、青空へと吸い込まれ、このまま溶けてしまうのではないかと何度も思った。

ところで、今いる場所は東西に長く、南北の幅が短いのが特徴の讃岐山脈のてっぺんである。
山頂公園の景観のような眺めがあるということは、逆に平野から南を臨めば壁のような山が横一列に連なっていることになる。
実際、この後の旅の期間中、東西どの場所から見ても、堂々と横たわるその姿は圧巻であった。
ところでついでにもう一つ。
面白い場所がロープウェイ山頂駅の近くにあった。

意外にも県境が存在したのだ。
徳島県といえば香川県の東端にあるイメージでいたので、愛媛県に近い西の場所に何故?
と、こんがらがって、慌ててスマホ地図を確認したが間違いなかった。
四国を東西に走る中央構造線と讃岐山脈の位置関係を地図で見ているうちに、もしかしたら、香川県の面積が小さいのは中央構造線のイタズラによるものではないか・・・
と地形を見ているうち確信に近いものを感じだ。

ちなみに四国霊場中最高峰に位置する雲辺寺は徳島県側にある。

豊稔池堰堤という名の古城
まるでジャングル奥の秘境に突如現れた遺跡であった。

迫りくる威容は、

探検者を称えるかのように、生きるが如く5つの口から水を吐き出し、スロープになった部分など、アステカやマヤ文明の階段状ピラミッドを彷彿とさせるようであった。
といったのが私が受けた印象である。
そもそも、この豊稔池堰堤に来るきっかけになったのは、雲辺寺ロープウェイ山麓駅に貼ってあったポスターを見て、5キロ程度であるならば、是非とも行ってみたい!
と衝動的に思い立った、いわば予定外の寄り道なのだ。
余談だが、私たちの旅にはこのような衝動的に行き先を追加・変更することが多い。
明日、明後日にもう一度来れる距離であれば、また次回ね。
ともなるのだが、海を渡った香川県の西端に、またいつ来れるかという保証もないし、あてにならない次回にする位ならば、今すぐ行ってしまおうではないか。
そんな気持ちで立ち寄った寄り道ほど楽しいものはない。
豊稔池堰堤(ほうねんいけえんてい)は、1926年に4年余りの年月をかけて完成しました。
このダムの堤長は145.5m、堤高30.4mで日本最初期のコンクリート造留池堰堤です。
両端部を重力式、中央部が5個のアーチと6つのバットレスからなるマルチプルアーチ式のとても珍しい様式のダムです。
まるで中世ヨーロッパの古城を思わせる偉容と風格があり、水をたたえた水面と周囲の山並みとの和で四季析々に見事な景観を見せてくれます。
また、豊稔池という名前は、このため池で観音寺市が豊かに稔ってほしいという願いを込めて命名されました。
(出典:豊稔池堰堤 案内板)

そうか、確かにヨーロッパの古城と思えばそう見えなくもない。
先入観というものは恐ろしい。
最初からそう聞いていれば、それにしか見えなかっただろう。
この後に来る探検者はどう観るのであろうか。
ともあれ、約100年前に完成し、今も現役の水利シムテムには頭が下がる。
日本にいるはずなのに、異国にいるのかと見紛う建造物は唯一無二。
いつまでも来る者の度肝を抜く姿を保ってもらいたいと心から願うばかり。
400年越しの恋文
立体文字というものは、真横から眺めてもよく分からない。

とは、行ってみて分かることである。
滞在時間3分、早々に後方の展望台へ向かう。
するとどうだ。
さっきまで砂の塊にしか見えなかったものも、

寛永通宝(かんえいつうほう)を模した巨大な砂絵に早変わり。
勉強不足で甚だあさましく恥ずかしいのだが、私はてっきり観光客を喜ばせるために最近つくられたものとばかり思っていた。
だが、そうではないらしい。
寛永10年(1633年)時の将軍家光公から讃岐巡遣使を派遣するとの知らせを受け、丸亀藩主生駒高俊公が領内巡視の際、このことを聞いた地元の古老たちが、何か領主歓迎のためにと、有明浜に銭形の砂絵を一夜のうちに作りあげたと伝えられる。
(出典:銭形のいわれ 案内板)
私は雷にでも打たれたような気持になった。
これぞ究極のおもてなしの心ではないか。

更に面白きは銭形砂絵をGoogleマップで見た時である。
山頂からは丸い円で描かれているように見えども、実のところ展望台から正円に見えるよう計算されており、是非とも喜んで頂きたい・・・との温かい思いが、ひしひしと伝わってくる。
そうであるならば、私たちは400年前に宛てた波に消えない恋文を、今も尚、受け取り続けていることになるのだろう。
蒼へ続く鳥居
稲積という名からして、五穀豊穣への感謝が由来なのであろうか。
刈り取った稲を積み、供えたように見えるからその名が付いたのかもしれない。
由来は分からないが、事実、西方面の財田川から見上げた稲積山はそんな平坦な姿をしていた。
そこにポッコリ天へと突き出ている場所にあったのが、

高屋神社。
この神社を有名にしたのは、今や衆目を集める天空の鳥居である。
標高は406mしかないにも関わらず、急峻さと遠近によって断崖を見下ろすが如く真下に地表を感じさせた。

更に遠くは有明浜の向こうどこまでも続く水色に霞む海岸線を背にし、堂々と立つその姿は、彗星のように空へ飛び出しそのまま蒼に染まれ。と、

大きなやさしさに全身包まれているかのようであった。
多島海を見下ろして
香川県の西に、荘内半島がにょきと海に突き出ている。
その先端近くに紫雲出山(しうでやま)はあるのが、ここからの眺めが実に素晴らしかった。

三豊市観光交流局のHPから抜粋すると、
近年、Yahoo!JAPANの「日本が誇る桜の絶景15選」や、「死ぬまでに行きたい!世界の絶景 日本編(詩歩著書)」、米国ニューヨークタイムズ紙で掲載されたことで注目を集めています。
名前の由来は、浦島太郎が玉手箱を開け、出た白煙が紫色の雲になって山にたなびいたため、名付けられたといわれています。
と書かれてあった。
いやはや、心から満ち足りていい気分である。

手前から東に塩飽諸島が、西の奥には笠岡諸島が浮かんでいるのが見え、それぞれが小さな島で点在しているがために、海との釣り合いが取れ、山頂ならではの角度で、遠くまで島が重なっている様は、これぞ瀬戸を代表する地形、多島海なのだと惚れ惚れしてしまった。
では、眼前の景観にある瀬戸内海はどうやって出来たのであろうか。
以前、とても興味深かったので調べたことがある。

瀬戸内海の地理の歴史を紐解けば、約6,000〜8,000年前、元々ここに海はなかった。
にわかに信じがたかったが、それが事実だと認識したのは、たまたま3年前に行った広島県の倉橋歴史民俗資料館に、漁船の網に掛かったナウマンゾウのキバが展示されているのを見たからだ。
つまり、大昔には広大な緑の大地が広がっていたということになる。

ところが、大地に刻まれていた中央構造線という巨大な断層が動き、フィリピン海プレートの力が掛かって横ズレをした。
これにより西は佐田岬のある豊予海峡、東は鳴門海峡辺りより海水がなだれ込み、現在の姿となったというのだ。
ついでながら、淡路、瀬戸、しまなみと3本橋が架かる所に島が集中するのは、横ズレに伴って盛り上った大地のシワの部分にあたるからだ。

今見えているのが島だと思っているものも、
実はかつての山頂が侵食された姿だと思うと何とも不思議な感覚になる。
影になるまで
そろそろ頃合いと、満を持して向かったのは、

遠浅で有名な「父母ヶ浜」(ちちぶがはま)。
わざわざ干潮時を調べてまでやってきたのには深い深い、マリアナ海溝よりも深い訳がある。
水面に映り込む娘の姿を撮りたいという、

父親のエゴのためだ。

けなげなことに、裸足になって遊びたい気持ちを抑えて、長時間私に付き合ってくれた。
撮影が終わると、

今日一日、車に揺られ続けていたこともあって、

ズボンを濡らす勢いそのままに駆け、一箇の影になるまで波と戯れていた。

琴平に移動し、長い長い一日目は終了。




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