テレビの向こうの江の島
江の島はいつも天気予報の時間帯に映るテレビの中にあった。
確か日曜日の昼前あたりに見る光景は、広大な太平洋を背に、陽光を受けてキラキラと輝く海の向こうに、対岸から女性がすっと白く細い腕を伸ばした橋の先、海風に飛ばされた帽子をあっと掴んだ一瞬の場面を、切り取った一枚の絵画のようであった。
何度も目にするうちに愛着すら感じ、つい行ったような気になっていたが、何てことはない。
今回が初である。

昨晩のうちに東京を離れ、神奈川の大船駅まで移動し、そこからは湘南モノレールで江の島対岸の宿で一泊。
最終日の3日目は午前を江の島、午後を鎌倉という算段であったが、

ここで私は大変な誤解をしていたことに気付かされた。
平坦で何もないような島だと勝手に思い込んでしまっていた節があり、上陸したならば、自分の足跡を砂場に付け、「来たぞ」と証拠を残した時点で、さっときびすを返し、すぐにでも鎌倉へ向かってしまおうと、時間配分は短めに設定していたのだ。
ところが、突如現れたつづら折りの階段の長さと、それに伴う標高差に、まんまとやられてしまった。

ベレー帽のように思っていた島は、

意外にもバケットハットであったのだ。

しかも、小さいと思い込んでいた面積も横長で、東京から近い影響でリゾート風な建物がひしめいている印象であったが、建物といえば土産物店や飲食店が多く、後は嬉しいことに緑が多かった。

さて、話を戻す。
どうして江の島は天気予報に使われるくらいに惹かれる画なのであろうか。
私は地形を見ながら一つの答えに行き当たった。
それは、突起物だからではなかろうかということだった。
周囲を見渡してもこの島程、陸から近い島はない。
そのため、より目立つのだ。
同時にこれはシンボルであるとも思った。
あっ、ここは湘南だ。と誰もが一目で分かる代表的な存在であり、ぎゅうぎゅうとした都会の満員電車から解放されるオアシスのような存在、非日常的な砂漠のオアシス的存在に、感じられるからなのかなとも思った。

しかし、突起物のような江の島が誕生したのにはちゃんとした理由がある。
それは階段を下りた先にあった。
遠くなりし島影
島の南側は、ほぼ垂直に切り立つ断崖が続いていた。
これは私が勝手に表現した北側の女性用の帽子とは似ても似つかぬ、太平洋に突き出した顔というべく、荒々しくも厳しい表情をしていた。

伊豆半島がフィリピン海プレートに乗って本州にぶつかってできたならば、江の島は今から7~8万年前に海底が度々隆起したことで出現した。
おそらくは、地殻の力が一点に集中し、ひずみが生じやすい場所なのであろう。
その後、波が侵食を繰り返し岩屋、つまり海食洞ができ、

現在に至るのである。
岩屋に入ると粋な計らいがあって、ロウソクに火を灯した手燭を渡された。

その明かりを頼りに進みながら、まるで何かの生き物の体内を進むような感覚で奥へ奥へと入ってゆく。
耳を傾ければ、天井から時折、ぽちゃん、ぽちゃんと水が滴る音が反響する。
まさかこんな静寂な場所があったのかと、歌舞伎役者の七変化を見せられているようで驚きを隠せない。

第二岩屋まで堪能した後は、今度は違う角度で江の島を見てみたいと思った。

駅に着くとすぐに電車がホームに入って来た。
江ノ電には様々な色をした車体があるが、やはり、あぁこれだなと思い浮かぶ色は、緑と黄のツートンカラーであろう。

ところで、もし、江ノ電に特等席があるならば、それは江の島が見える前方ないし、後方の運転席越しの景色だと思う。

元をたどれば、約10年前に初めて鎌倉方面から電車に乗り、大きなカーブで江の島が初めて見えたあの興奮が鮮明に残っているからだろう。
一度味を占めたら忘れられないものらしい。

今度は小さくなりゆく島影を見送りながら、古都、鎌倉へと舞台は移ってゆく。
変わらぬもの
長谷駅からは徒歩である。
鎌倉を歩いていて心からいいなと思うのは、道幅がそこまで広くないことだ。
ようやく人がすれ違えるくらいの歩道を、いつの間にやら駅より一緒になった観光客が列となり、同じ方向に歩調を合わせるように進んでいくのだ。
もし、これが観光客対応として道が拡張されれば街の様子はどうだろうか。
随分と勝手ながら、鎌倉らしさから遠のいてしまうような気がしてならない。
人々は古都らしい狭さと奥ゆかしさを求めて、または言い換えるならば、便利ではなく、多少の不便に趣を感じ街全体の雰囲気を味わうのだろう。
角を曲がると、

門かぶりの松に大きな赤い提灯が掛かる長谷寺が見えた。
(以下は長谷寺のパンフレットより抜粋)

往古より「長谷観音」の名で親しまれる鎌倉長谷寺。
伝承によれば、奈良時代の天平八年(七三六)に開創された鎌倉でも有数の古刹です。
伝世する寺宝から、鎌倉時代には当山の寺観も整っていたことが知られ、その頃開かれたとされる坂東三十三所観音霊場の第四番札所に定められた長谷寺は、東国を代表する観音信仰の霊蹟として衆生の方々の篤い帰依をあつめてまいりました。
創建以来、連綿と続くその法灯を守りつつ、今の世に「観音浄土」の余香を伝え続けます。

本尊の十一面観音菩薩像は、像高三丈三寸(9.18m)にも及ぶ本邦最大級の木彫仏です。
当寺に伝わる縁起によれば、養老五年(721)に楠の巨大な霊木から二体の観音像が造顕され、そのうちの一体が大和長谷寺の本尊となり、残る一体は衆生済度を祈願し、海中へ奉じられたといいます。
その後、天平八年(736)に至り、相模国の長井浦(横須賀市長井)の洋上に忽然と顕れた尊像は鎌倉へ遷座され、当山開創の礎となりました。
錫杖を右手に執り、岩座(金剛宝盤石)に立つ尊容は長谷寺に祀られる観音像特有の姿として「長谷寺式」と呼ばれます。

見晴台からは抜けるような青空の下に、青く広がる由比ガ浜が見えた。
海からの風の中、名物の団子と温かい珈琲を味わうと再び歩き出す。
さて、娘。
娘は昨日の動物園や、午前中の江の島といい、歩き通しのためお疲れ気味で、後姿を見ていても、軽いリュックサックに石でも詰め込んでいるかのように、足取りは重そうである。
ここはもう少し踏ん張ってもらわなければならない。
そこで、
「次の高徳院には、とっても大きな仏様がいるよ。誰が一番早く見つけるかな」
と私が言うと、元気を取り戻したかのように、私たちの前を駆け出し、あたりをキョロキョロ見渡しながら角を曲がる。
すると、かん高くひと言。
「デカぁ~」

食い入るように、じっと見上げている。
(以下、高徳院のホームページより抜粋)
鎌倉大仏として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。
その造立が開始されたのは1252(建長四)年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。
その後、大仏殿は台風や大津波のため倒壊し、室町時代の末までには、今の「露坐の大仏」になりました。

長谷寺の観音像も、高徳院の阿弥陀像も時代が古い。
娘もまた、その一人になったように、いにしえより一体幾人が手を合わしてきたのだろう。
仏像は何も語らない。
語らないが、だが、その沈黙こそが、変わらぬ心を今に伝えているような気がした。
夕陽に染まる古都
鎌倉駅の待合い室で妻が帰りの切符を購入している間ベンチで待っていると、娘が私に寄りかかってきた。
覗き込めば、座ったまま寝息を立てすっかり熟睡している。
起こすのも忍びなく、もう少しこのままにしてやりたいなと思っていると、ちょうどいいことに、妻の前に並んでいた人は鎌倉が初めてのようで、どのように観光すればいいのかと事細かく聞いている。
係の方も対応に追われ、大わらわといった感じだ。
思わぬ形で30分も休憩ができた娘は、かなり体力を取り戻した。
せっかくここまで来たならば、もう少し先の鶴岡八幡宮まで行こうとなり、
「歩けるか?」
と聞くと、大丈夫と言って段葛(だんかずら)を元気に進んでゆく。

この八幡宮は、11世紀の後半、源頼朝が鎌倉の街の中心に据えた武家政権の守護神を祀る場所として、また、「武運の神」として今日まで信仰を集めている。

時は夕刻。
さっきまで街全体を紅の衣でまとっていたのも、

徐々に裾を上げ、今回の旅の余韻を、静かに残してくれているようであった。

旅に出る理由
この旅はパンダが日本からいなくならなければ行くことのなかった旅であり、またパンダを口実にした旅でもあった。
奇しくもブログを書いている最中、
シャオシャオとレイレイの2頭は中国へと出発していった。
私たちが訪れた11月は約1時間並び、ゆっくり5分間は見ることができたが、年が明けた1月末には抽選となり、5時間並んで、観覧時間は1分だったと聞く。
私たちが行けた時期は絶妙なタイミングだったのだと今になって思う。
また、いなくなって初めて、
そこまで愛着もなかったパンダが少しだけ好きになったように思えた。
娘にとっても、上野のパンダは記憶に残るのではあるまいか。
しかしながら、彼女はまだ若い。
心配しなくとも、またいずれ会える日があるであろう。
その時は娘の子どもと一緒に行っているのかもしれない。
さて、私もお陰様で東京に少しは慣れた気になっていたのだが、約10年前のブログを読み返すと、性懲りもなく同じようなことを書いていた。
歴史は繰り返すと言うべきか、まったく成長がないというか、いずれにせよ、家族旅行の歴史に深く刻み込まれたことは間違いない。
「現在(いま)が人生で一番若いのだから」
と誰かが言った。
若いうちに、次の旅先へ思い出をつくりに行こうと思う。




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