はじめまして、桜島
広島からはるばる距離にして約530km。
眼前に桜島が見えた時の興奮はいかばかりだったか。
今も余韻が残る。
あれほど心を揺さぶられた景色は、そう多くない。
旅の発端はこうだった。
息子の通っていた高校の修学旅行が、コロナ禍による影響で中止となった。
さすがにこれは不憫に感じられたので、その代替えとして、
「どこか連れて行ってやるから、場所が決まれば言ってこい」
と、随分前に伝えておいた。
ところが数ヵ月経っても返事がない。
このまま流れるかな。と思った3月の終わり、ようやく回答があった。
「縄文杉を見たい!」
ニンマリした顔で言い放ってきた。
「ん???もしかして屋久島の???」
何を言ってやがる・・・
屋久島と言えば、鹿児島県の南に浮かぶ離島ではないか。
もはや日帰り旅行どころではない。
本人としては色々と思案した末のものだったらしいが、私とすれば、年度替わりの慌ただしいこの時期にキタか・・・と、それを聞いた時は思わず苦笑いをしてしまった。
が、約束は約束。
急遽のスケジューリングをし、進学祝いも兼ねての鹿児島旅行と相成ったのである。

ところで、人は、初めて触れたもの、初めて見た景色、初めて体感した出来事ほど、記憶に深く刻まれる。
着いた城山公園の駐車場は桜島とは正反対の場所にあった。
うっそうとした木々に囲まれ、周囲は見えづらい状況下、私たちは緑の中をあれこれと話をしながら、公園内を東へ進んでいくと、突如、霧が晴れるかのように視界が開け、眼前に桜島がドン!と現れた。
親子は打たれたように立ち止まり、

うわぁ・・・という言葉にもならない声を上げた。
これが鮮明に記憶に残った。
桜島は2.9万年前の大噴火で出来た姶良(あいら)カルデラの南位置に、3千年後、噴火と共に海中から現れた。

元々は島と付くように、西郷隆盛が生きていた時代は、錦江湾に単独浮かんでいる島であったが、1914年(大正3年)の大噴火により、湾の東にある大隅半島と陸続きになった。
海を埋めるくらいだから、大地の咆哮と言っていい。
もう少し初見の感想を述べると、桜島は想像していた以上に大きく、正直、度肝を抜かれた。
かすかに南奥から噴煙を上げ、まるで迫ってくるような威容は、いつまでも観ていて飽きさせなかった。
飽きないどころか、美しく雄々しい姿かたちは、安心感というか希望というか、在るだけで、とてつもないエネルギーを与えてくれる山だと思った。
実際、桜島はこれで見納めという最終日。
フェリーから降りた時も、桜島サービスエリアから観た時も、ずっと惚れた人を見ていたいような、
または、恩師に頭を下げるような、姿が観えなくなるまで、いつまでも別れを惜しむような愛慕の感情を抱かせた。
日本を変えようとした男
城山公園展望台の麓に、鶴丸城跡がある。
鹿児島城という呼び名が正式名だが、私的には前者の方が風格を感じられしっくりくる。

1601年(慶長6年)に島津忠恒によって築城されたが、関ヶ原合戦後、徳川幕府への配慮もあってか、当時から非常に簡素な造りであったらしい。
今となっては、石垣だけが残り、昔を偲ぶばかりである。

篤姫の像を見て、次に向かったのは尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)。
ここら辺り、私の大好きな幕末に焦点を当てたい。

今は島津家の歴史などを展示している施設だが、元々は11代薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)が実践した集成館事業の一環として建てた機械工場である。(以下、「九州の世界遺産」より要約)
斉彬は国を護るインフラ整備と新事業の工場群を「集成館」と名づけて力を注いだ。
日本初の近代的な工場群を仙巌園内に設けた薩摩藩主島津斉彬は、1851年に海外からの脅威に対し、海からの外敵に備えるための大砲や武器、軍船を自前で作る必要があると考え、

材料の鉄を溶かす溶鉱炉や反射炉建造に着手した。

とにかく危機感と先見性が人一倍あった人で、私は施設を回りながら、斉彬のこのまま世界最先端技術に追い付かなければ、日本は外国勢力による武力を背景とした外交に対し、後手へ回ってしまう。
まず隗より始めよの精神で、薩摩藩が時代の先頭に立とうではないか!
という気概をビリビリ感じさせられた。

そういう意味で、薩摩一国というよりも日本全体の将来を見据えていたのであろう。
この頃まで、日本人の大部分が外国勢力=敵 と捉えていた節があるが、斉彬死後、考え方を根本的に一変させる事件が起こる。
近代化を、より一層手繰り寄せた戦争と言ってよい。
未来を見据えた藩主
多賀山公園には、

砲台跡が残る。

これを祇園之洲砲台跡と呼ぶのだが、言わば戦場跡である。
実は薩摩藩、イギリスと戦争をしている。
世にいう薩英戦争。

Wikipediaは次のように説明している。(一部抜粋)
前年の文久2年(1862年)に起きた生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し、防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。
まさに斉彬公が予見したかのよう。

結果だけを見ると、両者とも大きな被害を受けた。
薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。
当時のニューヨーク・タイムス紙も、日本人の勇敢さを称えた記事を掲載するほど、衝撃的事件であった。
この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。
薩摩藩はこれを機に技術鎖国から抜け出せないままの反対者を押し切り、オランダやイギリスから輸入した機械や道具を使って蒸気機関を用い、金属加工や船舶装備品など様々な部品を集成館(工場)から作り出していく。
また、新納中三、五代友厚、寺島宗則の使節団と森有礼ら19名の学生で構成した「薩摩藩遣英使節団」を送り出し、欧州やアメリカで技術や航海術を学び帰国。
集成館紡績工場の建設・運営、造船をはじめ、日本建国の礎となる産業革命の主役となってそれぞれ活躍していく。
(九州の世界遺産より抜粋)
歴史の奇妙なる巡り合わせは、同時期、長州も文久3年(1863年)と同4年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国と下関で戦争をしている点だ。
長州藩もまた実戦を通じて、世界との差を肌で痛感した。
それが後の薩長同盟、討幕に結びついていくのだから、薩摩藩と長州藩にとって大きな転換期と言えよう。
人がすぐにでも変わるきっかけがあるとすれば、とてつもない危機的状況であると、ある本に書いてあった。
歴史を学ぶほど、その言葉は現代にも通じるように思えてならない。
火山と暮らす
歴史の話はいったんここまでにして、さて鹿児島親子旅。
次は、車ごと桜島へ渡ろうという話になった。

フェリーに揺られること約15分。

あっという間に対岸へ着いた。
錦江湾をぐるりと回ることを思えば、まさに大幅なショートカットである。
まずは、桜島ビジターセンターで桜島の成り立ちについて勉強をした後、一般の人が立ち入ることのできる最高地点、北岳の4合目にある

湯之平展望所まで上った。
随分と、近くまで来たと思っていたが、思いの外、山頂が遠い。
お~い!と声を掛けても返ってこさなそう。
しかし、対岸から観ていた桜島は穏やかな山に見えたのだが、近くだと想像以上に山肌が荒々しかったのには驚いた。
ところで、山を下りて道の駅に向かっていると、港付近でヘルメットを被った小学生が下校している姿に出合った。
そう、そうなのだ。
さっきから気になっていたのは、このことだった。
2021年の桜島噴火回数145回という数字が示すように、
噴火口が僅か3キロ先にあるにも関わらず、幼稚園や小学校が普通に存在している。
毎年のようにニュースで、桜島の噴煙が高度何千メートルに到達しました。というニュースを見るものだから、凄い環境の中で生活しているのだなぁ・・・と、人々のたくましさに感心してしまった。
暮らしとは、その土地と折り合いをつけることなのかもしれない。
道の駅前には、

火山灰質の土壌による恩恵と言える桜島大根が栽培されてあった。
対象物がないので分かりにくいが、大きさは約30cm。
世界一大きい大根というのも頷けた。
火山は脅威である一方、多くの恵みも与えてくれる。

その後は足湯に浸かり、

海岸にあった溶岩を直に触りながら、ひしひしと火山島にいることを実感させられた。
足湯の温もりも、海岸に転がる溶岩も、この島が今なお生きている火山であることを静かに物語っていた。

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