行けるかもしれない
「どこか家族で旅に出掛けたいねぇ・・・どうだい?信州でも行ってみるかね」
私が実家で地図を広げながら、現実味が薄い独り言を呟いた。
というのも、父は大病後に足を患い、歩けることは歩けるのだが、明らかに片足を引きずるようにしている姿は見ていて痛々しく、五百メートルほど歩くと痛みで立ち止まらなければならない姿を見ていると、連泊を伴う旅は、もう叶わないものだと思っていた。
ところが母が、
「実は今年、結婚50周年なのよ」
と発した瞬間、「あっ!」と私は思わず手を叩いた。
そういう節目の年であらば、父を連れ出すには格好の誘い文句になると思ったのだ。
そしたら急に希望の光が見え始めた。
問題は、父に行く気持ちがあるかどうかだった。
咄嗟に父の顔を見れば、
「みんなに迷惑が掛かるから・・・」
と、父は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、なかなか言葉が喉の奥から出なかったものの、ついには周囲に押され、自身でも杖さえ用意すれば、どうにか行けるのではないかとまで言い出すようになった。
時期も気候の良い梅雨入り前、1ヵ月後の5月末と決まり、行くと決まれば、今度は「どこへ行く?」「どんなルートにする?」と、一気に慌ただしくなった。
「今回は連れて行ってもらえるのだから」
と、それらは全て私に一任されることとなった。

旅の当日は驚くほど早くやってきた。
どうやら心配した父の足の具合も悪化することなく、雨も旅程内に降る様子もない。
すると名古屋駅10番ホームに、

10時発、特急しなの7号がするする滑るように入ってきた。
ここに結婚五十周年と父の喜寿を祝う長野への旅が幕を開けたのであった。
木曽路を越えて
名古屋を中心にした日本で2番目に広い濃尾平野も東へ1時間も走れば、見渡す限りのビル群は一体どこに影を潜めたか、いつしか五月の緑の中へと景色を一変させていた。
木曽路に入るといよいよ谷はさらに狭まり、1本の彫刻刀で深く削り込んだような山と山の隙間を、

特急しなの号は激しく車体を左右に揺らしながら進んでゆく。
この道は中山道と呼ばれ、五街道の一つであった。
その五街道とは、江戸日本橋を起点に東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道、そして中山道を指すのだが、特に山奥をゆく中山道は幾つも峠がある大変な道で、木曽路を象徴するよう、まさに山中を縫っていくという表現が正しい。
だが結果、妻籠宿、福島宿、奈良井宿など、険しい地形ゆえ大きな開発を免れ、今なお古き日本の面影を色濃く残すこととなり、日本人に限らず外国人にも人気のスポットとなっている。

ところで、流れる車窓からの風景を見ながら私は別のことを考えていた。
この中山道を徳川秀忠はどのような思いで駆け抜けたのだろうと。
1600年、石田三成らが挙兵をした。
ただちに上杉討伐を中止し西進となったのだが、思わぬ真田の抵抗に大幅に日数を費やしてしまい、父家康の定めた期日に間に合わないばかりか、関ヶ原の合戦にも5日も遅れるという大失態を犯してしまった。
そんなことを考えていると、目の前の道を必死の形相でゆく秀忠の姿が目に見えるようであった。
また木曽は義仲のゆかりの地でもある。
街道というのはそういう出来事が濃い線で幾度も塗り重ねたようなドラマが詰まっており、人の往来が激しいだけにドラマが起こるべくして起こるいわば歴史の1頁1頁を繋ぐつづりの役目を果たしている。
洗馬駅を過ぎると、今までの隘路が嘘のように開け、

葡萄畑越しに北アルプスが見える広大な盆地が現れた。
鴨汁の香り
信州といえば、やはり「蕎麦」である。
車内で次の停車駅が松本だとアナウンスされる前から、

私の口の中はもう蕎麦一色であった。
レンタカーを借り走り出すと幸い、「そば処 吉邦」という店を見つけ、メニューにあった「鴨つけそば」を迷わず注文した。
ところ変われば品変わるとはよく言ったもので、

これは厚みのある鴨肉とネギが入った、コク深い温かな鴨汁に蕎麦をくぐらせていただくものであった。

なるほど。
そういう食文化があるのかと、思うのが先か、口を動かすのが先か。

ともあれ、うまいものは人を幸せにする。
心が先に歩いていた
国宝 松本城。
現存する日本最古の五重天守で築造から400年以上の歳月が流れる。
私はこれまで、この城を雑誌やテレビで何度目にしてきただろう。
だが、どこの位置、どの方向から眺めれば、そういう角度になるのか、また大きさや距離感はどのようなものであるのか。
頭の中にある断片的な記憶を繋ぎ合わせようとしても、現地へ足を運ばなければ、一枚の絵として完成することはなかった。
先刻のそば屋を出てからというもの、早く一目見たい一心で体より先に気持ちの方が私の前を歩いている。
外堀から太鼓門をくぐると

すぐに現れるかと思っていたがそこに姿はなく、大きく南に回り込んで、それでも木々が遮って見えないから、西へ西へと内堀に沿っていき、そこでようやく全体の姿を目の中に納めることができた。

「うわぁ・・・テレビで見たのと全然迫力が違う・・・」
母が感嘆の声をあげた。
まさに私の心の内を代弁するひと言だった。
雑誌やクイズ番組で知っているつもりでも百聞は一見に如かず、目の前にこそ本物はあった。

皆、しばらく時を忘れたようにその場から動けない。

黒門を過ぎ、本丸御殿跡から反時計回りに歩みを進めるにつれ、

天守は美しい三角形へと姿を変えていく。
それがまた優美な姿として記憶に残った。

黒き天守の秘密
松本城は戦国時代の永正年代初めに築かれた深志城(ふかしじょう)が始まりで、
天守の築造年代は、文禄二年から三年(1593~4年)とされている。
松本城には、とりわけ印象的な特徴が二つある。
絶妙な距離感の内堀から見る全身黒漆(うるし)によって塗られてある姿、

もう一つは、
実際には訪れることはなかったが、徳川家光の宿城として宛てられた際に造られた月見櫓。
まさに戦国を生き抜く堅固さと、江戸の平和が生んだ優雅さ。
とだけ聞けば、不釣り合いそうに思うが、実際目にした姿は見事に調和が取れているから驚くばかり。
さらに中へ入れば、天守までの高さ29.4mを木だけで支える技術がどれだけ高度なものが分かる。

柱の数にも驚いたが、階段の急なことにも驚いた。
特に4階から5階に上がる傾斜は、もはや階段というより梯子と表現した方がいい程の鋭角ぶり。
一人上った娘も娘も下りは怖かったようで、最後は私が抱えて降りることになったのだが、

その分、天守から見る風景は格別だった。

もう5月末だというのに、槍ヶ岳など北アルプスの穂先が雪をかぶり白く輝いたのは感激だった。
だがもっと感激したのは、400年以上経った木造建築に特別な規制なく、ごく普通に天守まで行けたことだ。
これは当たり前のようで決して当たり前ではない貴重な体験に相違なかった。
わさびは偉い。
松本市街を北上するとすぐに田園風景が広がる。

梓川を渡れば安曇野。
常念山脈を水源とした複合扇状地の扇末部に大王わさび農場はあった。
わさびと聞けと、山奥の斜面を利用した段々畑などをイメージするが、

ここでは大正時代から豊富な湧水に恵まれた土地を開拓し、広大な規模へと成長していった経緯がある。

この香辛料はとてもデリケートな植物で、直射日光に弱く、気温も高過ぎず低過ぎず、そして清流の場所でないと育たない。
これほど条件が揃わなければ育たないことを思えば、もしかしたら断崖絶壁に咲く花のように、知る人ぞ知る高貴な存在になっていたのかもしれない。
ところで、ふと、こんなことを考えた。
わさびが日本古来の食文化になかったらどうであっただろう・・・
刺身や寿司など、あのピリリっと舌から脳天を突く刺激は味わえず、他に似たようなものもないから、醤油だけで食していたのだろうか。
また、生魚を食べる文化のない外国の人たちは、これらを食べることを楽しみに来日したであろうか。
しみじみ、醤油とわさびは偉いと思う。

まるで新たなる発見をしたような気になっている私の鼻の奥を、名物のわさびソフトクリームが見事にツンと刺激した。
安曇野という原風景
もし日本の原風景と呼べる場所があるとするなら、それは安曇野ではなかろうか。
私が観た風景はそれ程に懐かしく美しいものであった。

わさび農場の傍に流れていた川に辿り着いた途端、まさに『水紫山明』という言葉そのままの、幻想的な風景の世界にすっかり呑まれてしまい、思わずシャッターを切る手が止まった。

それは心のどこかでずっと求めていた風景がいきなり目の前、形となって現れた感動で、無に近い心境にさせたのと、もう一つは、範疇を超えた美を収めることができるかどうか己に対する刹那の躊躇だった。
そこから幾度かシャッターを切ったが、全体を一枚に入れることができないもどかしさに限界を感じてしまい、撮るのを止めてからは、ひたすら記憶に残すことに専念した。

そんなことを知ってか知らずか、透き通った先の水草はいつまでも魚のように尻尾を振り、清いせせらぎは、途切れるという言葉を知らないようであった。
光の筆
西に飛騨山脈、東に筑摩山地に挟まれた縦長の松本盆地。

(アプリ スーパー地形より)
盆地から西側を見ると、別名日本の屋根といわれる北アルプス。
高低差は10km進めば1000m、20km進めば1800mと人を拒むかのようにそびえる。
それらは巨大な垂直の壁であり、南北に美しいラインを引く屏風のようでもあった。
私はこの自然がつくった屏風をもっと高い位置から見たいと思った。
安曇野を見渡せる東側の長峰山に登ったのは18時を過ぎたあたり。

もはや巨大山脈は一枚の大きな影になりつつあり、残念ながら期待した山並みは姿を見せてくれなかったが、それでも手前と奥とのコントラストを際立たせる絶景には変わりなかった。

しかし、それでも十分だった。
地表を西日ならではの角度をもって、まだ稲が植えられたばかりの水田、穂高川、高瀬川、犀川の流れや、それらが合流した地点、林檎、桃、山葵畑の緑を、

あたかも光の筆でなぞったかのように一斉に輝かせ、

またとない光景を見せてくれたからだ。




コメント