② 長野 Day2|善光寺平から草津へ――標高二千メートルを越えて

長野

親が残した道しるべ

 2日目は舞台を長野盆地へ移す。

高速道路で筑摩山地の長いトンネルを抜け、山あいを30分ほど走ると、広がった絶景は別名 「善光寺平」。

ちなみに、この場所から少し下にほぼ同じ道筋で篠ノ井線が走っており、姨捨(おばすて)から見る景色は、日本三大車窓の一つ。

また、麓から見上げる名月は「田毎の月」と呼ばれ芭蕉も訪れている。

はて、姨捨?

私は最初にこの地名を発見した時、ひょっとしたらと思ったがやはり、あの「姨捨伝説」の地だった。

→ 長野県のホームページには姨捨山について以下が記載されてある。

昔、年よりの大きらいなとの様がいて、「60さいになった年よりは山に捨(す)てること」というおふれを出しました。との様の命れいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

ある日のこと、一人のわかい男が60さいになった母親をせおって山道を登っていきました。気がつくと、せなかの母親が「ポキッ、ポキッ」と木のえだをおっては道に捨てています。男はふしぎに思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。

年よりを捨てるのは深い深い山おくです。男が母親をのこして一人帰るころには、あたりはもうまっ暗やみ。男は道にまよって母親のところへ引きかえしてきました。

息子のすがたを見た母親はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、とちゅうでえだをおってきた。それを目じるしにお帰り」。子を思う親のやさしい心にふれた男は、との様の命れいにそむくかくごを決め、母親を家につれて帰りました。

しばらくして、となりの国から「灰(はい)で縄(なわ)をないなさい。できなければあなたの国をせめる」と言ってきました。との様はこまりはて、だれか知恵(ちえ)のある者はいないかと国中におふれを出しました。男がこのことを母親につたえると、「塩(しお)水にひたしたわらで縄をなって焼けばよい」と教えられ、男はこのとおりに灰の縄を作り、との様にさし出しました。

しかし、となりの国ではまた難題(なんだい)を言っていました。曲がりくねったあなの空いた玉に糸を通せというのです。今度も男は母親に、「1つのあなのまわりにはちみつをぬり、反対がわのあなから糸をつけたアリを入れなさい」と教えられ、との様につたえました。すると、となりの国では「こんな知恵者がいる国とたたかっても、勝てるわけがない」とせめこむのをあきらめてしまいました。

との様はたいそうよろこび、男を城(しろ)によんで「ほうびをとらす。ほしいものを言うがよい」と言いました。男は、「ほうびはいりません。実は・・・」男は決心して母親のことを申し上げました。

「なるほど、年よりというものはありがたいものだ」と、との様は自分の考えがまちがっていたことに気づき、おふれを出して年よりを捨てることをやめさせました。それからは、どの家でも年おいた親となかよくくらせるようになりました。

(千曲(ちくま)市教育委員会のきょう力をえて、「姨捨の文学と伝説」から要約(ようやく)しました。)

 姨捨サービスエリア下りには、更埴西中学校の生徒が実際に制作をした

「灰の縄」が展示されてあった。

実際にこの地で、そのような風習があったのかどうかは分からない。

分からないが、

私は悲哀や年の功の先にある親子の恩愛を後世へ伝えているよう感じた。

語り継がれる戦い

 永禄4年(1561年)善光寺平 八幡原で、

戦国時代中期の巨頭とも呼ぶべき武田信玄と上杉謙信が、北信濃の支配権を巡り壮絶な戦いを繰り広げた。

この第4次 八幡原での激突こそ、全5回あるとされる川中島の戦いの中でも最大の激戦とされる。

(以下は、書籍・映像資料・現地展示などを参考に、私なりの解釈を交えてまとめています。)

9月9日、信玄は戦いが膠着状態になっていたのを打破するため、謙信が布陣する妻女山へ密かに別働隊を向かわせた。驚いて山を下ってきた上杉軍を八幡原で挟撃する「啄木鳥戦法」に出たのだが、それより前に謙信は武田陣の炊煙がいつもより多いことから計略を見抜き、武田軍の裏をかくように妻女山を夜間静かに下山する。

10日の朝、八幡原の霧が晴れると武田軍の目の前にはいるはずのない上杉軍が忽然と現れた。

驚く武田軍に、上杉軍は車懸り(くるまががり)の陣形で襲いがかり、武田軍は鶴翼の陣形で迎え撃つ。

作戦失敗により劣勢を強いられた武田軍は、武田信繁や山本勘助らを失い壊滅的な危機を迎える。

その時、謙信は手薄となった信玄の本陣を見るやここを千載一遇とばかり、

愛馬を走らせ斬り込みをかけた。

床几に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、

信玄はこれを軍配で受ける。

原大隅守が槍で馬を刺すと、謙信はその場を立ち去った。

戦いは昼前に妻女山で肩透かしを食らっていた武田軍の別働隊が八幡原に到着したことで盛り返した。

両軍合わせて死者約6000人を出し、午前は上杉軍の勝利、午後は武田軍の勝利ともいわれている。

また、合戦後、武田方の高坂弾正が一帯の戦死者を敵味方なく集め手厚く葬ったことを知った上杉謙信は大変に感激し、後に塩不足で苦しむ武田氏に対し、

「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩であらず」と直ちに塩を送った。

このことが乱世に咲いた美学として褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたとされる。(古戦場跡の看板から抜粋)

というのが、戦いのおおよその流れである。

しかし、その戦いを実際に見聞きした者の記録は、ほとんど残されていない。

天下泰平の江戸時代になってから戦況を伝える陣取り図や錦絵が流行したことで、それが元になり、今日まで語り継がれているのが実状らしい。

果たして本当に一騎打ちがあったかどうか・・・。

本人たちに聞かない限り、知る由もない。

しかし、もし川中島の戦いを戦国時代を彩る代表的な時代絵巻とするならば、やはり一騎打ちは物語の華であり最高潮場面なのだ。

だからこそ、江戸庶民から現代の歴史好きは、浪漫を含んだ想像へと駆り立てずにはいられないのだろう。

縁に導かれて

  「牛に引かれて善光寺詣り」

『故事ことわざ辞典』には、他人に連れられて、普段行かない場所へ出掛けること。

また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ。

と書かれてあった。

さらに由来を調べてみると、

→ ながの観光net に、このような伝説が記載されてあった。

むかし、善光寺から東に十里の村里に欲張りで信心薄いおばあさんが住んでいました。ある日、川で布をさらしていると、どこからか一頭の牛が現れ、角にその布を引っかけて走って行くではありませんか。あわてたおばあさんは、布を取り戻したい一心で、牛の後を一生懸命追いかけました。走りに走って、おばあさんはついに長野の善光寺までたどりつきました。ところが牛の姿を見失い、日もとっぷり落ちて途方にくれ、仕方なく善光寺の本堂で夜をあかすことに。するとその夜、その夢枕に如来様が立ち、不信心をおさとしになったのです。目覚めたおばあさんは、今までの行いを悔いて善光寺如来に手を合わせました。その後、信心深くなり、たびたび善光寺に参拝に訪れるようになったおばあさんは、ついに極楽往生を遂げたということです。一説には、おばあさんが家に戻ってみると、牛が引っかけていったはずの白布が観音様の肩にかかっていたともいわれています。それが、現在の小諸市にある布引観音だということです。

山門をくぐると眼前に、

翼を何重にも広げたような堂々たる本堂が姿を現した。

参拝者は吸い込まれるように中へと入ってゆく。

国宝に指定される本堂は木造建築としては4番目の大きさで、入り口を俗世、最奥を極楽とした内部空間が広がっており、外陣【げじん】に人間を裁く閻魔大王、内陣は俗世の救済者である弥勒菩薩と地蔵菩薩が配され、最も奥の瑠璃壇【るりだん】には絶対秘仏の一光三尊阿弥陀如来像が御安置されている。

善光寺HPより引用)

包まれたような落ち着いた空間で、それぞれがそれぞれ静かに手を合わせた。

「牛に引かれて善光寺詣り」

ここに来たのも何かの縁であろう。

一滴の雫から大河へ

 なんと千曲川は大きなことか・・・

そうしみじみ感じ入ったのは、西側の善光寺から東側の岩松院へ向かう途中に架かっていた村山橋であった。

先の見えない網目模様の鉄橋から上流を見ると、両岸には果樹園らしき緑が広がり、川幅がはっきりしない。

それが故に東西の山際までが川幅ではないかと一瞬錯覚させた程だ。

 ところで、この川が日本一長い川として私の中で登場したのは、小学校高学年の教科書に出てきた時であった。

その時はテストに出るからと覚えただけのことだったが、今になって、初めてどれくらいの長さであろうかと気になったのは、後で旅を振り返った際、意図せず3回も同じ川を渡っていたことに気付いたからである。

千曲川は山梨県の境に近い南佐久郡川上村を源流とし、佐久盆地、長野盆地、越後平野と南から北へ大蛇の如くうねらせ、長い旅路の果てに日本海へ注ぐ。

面白いことに、千曲川は新潟県へ入ると信濃川と名を変え、日本一長い川となる。

ただ一滴の雫が集まり、やがて日本列島を悠々と縦断する大河になると思うと、感慨深い。

次に新潟県に行くことがあれば是非、河口を見てみたいものだ。

岩松院に眠る傑作

 山裾の葡萄畑や林檎畑に囲まれた場所に、かの有名な葛飾北斎晩年の作品はあった。

あった。というべきか、見つけた。といった表現が似合っている。

少し前にテレビでたまたま紹介されているのを見て、せっかく長野に行くならば寄ってみたいと、目的地の一つに据えたのだが、まさかこんなにのどかな田園風景の中にあろうとは思いもしなかった。

山門をくぐれば、

岩松院。

本堂内は撮影禁止のため文章のみとなってしまうが、しかし、天井一杯、実に畳21枚分という大きさの葛飾北斎筆 「八方睨み鳳凰図」は圧巻。

岩松院ホームページ

 説明してくれた僧侶の話によると、北斎88歳から89歳にかけての晩年の作品で、描かれてから今年で175年目を迎える。

外からの自然光だけで浮かび上がるよう計算されており、これまで塗り替えは一度も行っていない。

その名の通り、本堂のどの角度から観ても睨まれているように見える。

それが不思議に思えたらしく、娘は隅から隅へ移動しては、

「鳥さん、みてるねぇ」

と彼女なりの感動を口にしていた。

いやいやもっと感動していた人物がいる。

父だ。

世界広しといえども、本物の北斎をこの目で見られるとは・・・と感心しきりで、僧侶の説明後もその場から動けずにあれこれと質問をし、余程印象的だったのだろう、旅から帰ってきた後も、

「あれは素晴らしかった」

と思い出す度に感動が蘇っている様子であった。

雲の上へ

 岩松院を出てからは信州中野まで北上し、そこから292号線に移り東へ、そして道はぐるりと南東に方向を変える。

すると目の前に通せんぼといわんばかりの大きな山が現れた。

ここから先に行くには、渓谷沿いに走るのだろうか、トンネルを抜けていくのだろうかと、ナビは平面図しか表示しないため、のんきに構えていたら、正攻法で山道を登り出したので、すっかり意表を突かれてしまった。

 ところが、この山道が凄かった。

登り始めるとすぐに、右に大きく曲がったと思えば次は大きく左へと、カーブ、カーブの連続で、車内は遠心分離器にでもかけられているのではないかと思った位に揺れに揺れた。

ただ確実にカーブを描く度に標高が上がっていくのが実感でき、志賀高原を越えたあたりであったろうか、

白樺が生える風景へと変化した。

「えぇ~まだ登るの?」

後部座席からそんな声が聞こえてくる。

まるでジェットコースターをゆっくりガタゴト上ってゆくあの興奮のようだ。

上記写真の地点で標高1,650m。

一旦は平坦に見えた道も再びぐにゃぐにゃ道になった時、私は看板か何かにスノータイヤ着用という文字をわずかに見た。

何を寝ぼけたことを・・・今日は5月26日ではないか。

あっ!次の瞬間思わず声を上げ目をこすりたくなるような気持ちになった。

電子気温計は3度を表示している。

展望台に停めて外に出た時は身を切る寒さで、先程の白樺並木はどこへいったか、今は高山植物が広がっていた。

しかし、もうすぐ6月というのに道脇に残っていた雪を踏むとは思っておらず、車に入ってからは、まさかの暖房を入れるという自身の行為に苦笑してしまった。

いや、笑っている暇などなかった。

既に18時を回っている中、これ以上気温が下がってしまえば、もしかしたら雪解け水で路面が凍結し峠を越えられないかもしれない。

賑やかな後部座席とは裏腹にそんな不安が頭をよぎった。

だが幸運かな、渋峠はまだ凍っていなかったばかりか雪解け水さえなかった。

ようやくのことで、

日本国道最高地点 標高2,172mの碑に着いた時は雲の中。

体験したことのない異次元の世界にいる・・・と喜んだのも束の間で、刻々と夜が迫る中、行き交う車もなくなると、荒涼とした景観の中、心細さだけが増幅され、本当にこの先に華やかな温泉地があるのだろうか・・・

と疑ったのは一度や二度ではない。

やっと草津の街の灯を見た時、

人知れず大きな安堵の息をついたのだった。

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