草津に度肝を抜かれる
草津温泉は江戸時代以降につくられた温泉番付で堂々東の大関。
毎分32,300リットル以上の自然湧出量は日本一を誇る。

室町時代には万里集九が有馬温泉や下呂温泉とともに「三名泉」とし、江戸時代には林羅山もこれらの三温泉を「天下の三名泉」と記した。
(Wikipediaより引用)

また「湯もみ」という独特な風習も江戸時代から今に至るまで息づいている。
ついでながら湯もみとは。(草津温泉 熱乃湯より抜粋)
草津温泉の源泉は熱く、約50℃近いものがほとんどで、そのまま入浴することはとてもできません。しかし温度を下げるために水を入れたのでは、温泉の効能が薄れてしまいます。そこで、熱い源泉の中に約180cmの板を入れて湯をもみ、入浴できるまでの一定の温度に下げる「湯もみ」が考え出されました。また、「湯もみ」をすることにより、温度を下げるだけでなく、湯を柔らかくする効果や入浴前の準備運動にもなります。
さて、いざ入らんと旅館の湯殿へ向かう父と私。
事前に草津温泉は酸性泉というのと、熱いらしいとの情報は仕入れておいた。

だが、電車も直通していない標高1,000mを超える高原に、これほど多くの観光客が訪れるのである。
ならば、誰もが気軽に入れる湯なのだろう。
そう高を括っていたのが、そもそもの間違いであった。
私は浴槽が壁を隔てて2つに分かれていたので、最初はぬるめから入って肌を慣らそうと思った。
ところが、つま先をちょこんと入れた瞬間、あまりの熱さに飛び上がって、反射的に湯舟から2、3歩後ずさりしてしまった。
元々血行が悪く冷え性というのもあっただろうが、相当な我慢をしなければ草津の湯は堪能できないものなのかと衝撃的であった。
だがしかし、最初に入った方が熱めだと勘違いをしていたのに気付き、なぁんだ。とぬるい方に足を入れたが、やはり熱いものは熱かった。
ところで、私は実家のまだ五右衛門風呂があった頃の一番風呂を思い出していた。
水温を下げてしまうと後入る人が困るために我慢したあの熱さである。
久し振りに、ゔ~と唸りながら浸かったこと自体、懐かしかった。
浸かってしばらく動けないでいると、何やら父がおかしなことを言った。
「湯にぬめりがある」
どういうことなのかと手で湯を揉むようにすると、
確かに片栗粉を水で溶いたのと似たような感触があった。
看板にはpH(ペーハー)2.05 と書かれてあったが何のことかが分からない。
これは後日調べて分かることになったのだが、

レモン汁と同じくらい強い酸性を示す。
その分、殺菌効果が高く、肌がキレイになり、皮膚病・神経痛・糖尿病など多くの症状をやわらげる効果が期待できるそうだ。
事実、父は入っている間は古傷がピリリとしたと言っていたし、私も手に限っていえば、数日間はまるで指紋がなくなったのではないかと思うくらいにすべすべになった。

当初は心の準備ができておらず度肝を抜かれたが、
朝風呂に入る時には、草津温泉とはこういうものだと身体が認識したこともあって、
左程熱さを感じなかった。
まったく人間の適応能力は驚くべきものがある。
ともあれ、すっかり虜になってしまった。
ここはただの温泉ではない。
湯に浸かりに行く目的以外に特殊な体験ができる特別な場所だ。

常に行きたい温泉ランキング上位に入るのもごもっともな話である。
火山と生きる国
3日目の朝、湯畑など周辺を散策し草津を後にしたのは10時半過ぎ。
『浅間・白根・志賀さわやか街道』
と呼ばれる緑溢れる木々の道をすり抜けると、今度は一転、狭かった視界が広がり一面のキャベツ畑が現れる。
やがて左手前方、窪地の先、頂を平らにした山が視界に入った。
ははぁ・・・あれが浅間山か・・・
日本史や大河ドラマでも幾度となく登場する有名な火山だ。
私は運転しているのを一瞬忘れるくらいその山を見入った。
浅間山が書物に初めて登場するのは日本書記。
西暦685年(白鳳13年)以降から今日まで噴火回数は100回を超える。
中でも天明3年の噴火は、日本の火山噴火史上で最大の災害であった。
(以下、天明3年の大噴火 – 浅間火山博物館より抜粋)
噴火は旧暦4月9日(5月9日)にはじまりました。はげしい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続きました。噴火はしだいに激しさをまし、7月1,2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどでした。7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりしてしまいました。沓掛(中軽井沢)や追分などは無事でしたが、人々は7日の朝から南の方へ逃げていきました。7日から8日にかけての噴火はとくにすさまじく、烈しいゆれで山麓の家々は戸や鍵もはずれ、雷鳴稲妻がすさまじかったといいます。午後4時頃、火口から黒煙がおしだし、黒豆河原一帯を焼きはらい埋めつくしました。これは火山弾と火山灰が一団となって流れ下った火砕流で、その堆積物は18.5ほどの面積にひろがり、体積0.1に及んでいます。高温のため中央部はとけて固まり溶岩のようになっています。その中に、当時生えていた樹木の焼け跡が穴となって残っています。普通このようなものは溶岩の中に木の幹が取り残されてできるので溶岩樹型と呼ばれます。大きなものは直径1m以上もあり、巨大な木が茂っていたことが知れます。8日(8月5日)の明け方少しおさまったものの、午前から再び烈しくなり、午前10時、真っ黒な柱が吹き出すと見る間もなく鎌原の方へぶつかるようにとびだしました。これは巨大な火山弾をまじえた火砕流で、山腹に沿ってなだれ落ちてきたものと思われます。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下ったと考えられますが、現在その堆積物の見られる範囲が鬼押出溶岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もあります。噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられ、柳井沼と呼ばれていました。火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させ、これが鎌原の集落などを襲ったのかもしれません。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、さらに火砕流も起こったと考える人もいます。浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができました。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没してしまいました。このため鎌原では住民597人の内466名が死に、助かった人はわずか131名でした・・・
天明3年の噴火による災害はこれだけではありませんでした。軽石や火山灰でおおわれた田畑は荒れて、作物がとれませんでした。上空に噴き上げられた火山灰が日射をさえぎってその後数年の間気候も寒くなりました。ちょうど同じ年にアイスランドのラガキガルでも大噴火があり、世界中が寒い時代になりました。このため天明の大ききんが起こり東北地方をはじめ日本各地で多くの死者や難民がでました。
おそらく天地がひっくり返るほどの轟音、異様な風景であったのではなかろうか。
想像しただけで身震いをしてしまった。
その時流れた溶岩が凝固した場所、それが鬼押出し園。

この日の午前は西側がどんよりとしていたため、山頂に掛かっているものが雲か噴煙かどうかの区別がつかなかった。
そこで売店のおばちゃんに聞いてみると、
「ああ、山頂右手から上がるのは噴煙ですよ。
最近では2019年(令和元年)に噴火がありました」
と愛想よく説明してくれた。

私は眼前の景色と、スマホのマップとをよくよく見比べてみた。
地形を立体表示にすると、この山がどんな山であるのかを、少しは窺い知ることができるのではないかと考えたからだ。
すると周囲の緑とは別に、明らかにそこだけ色を失ったかのような領域がある。
領域の中心は天に向って虎のように大きく口を開け、その火口だけを観ても、いつ咆哮してもおかしくはない程の迫力があった。

今はこうして観光地となり、大量の溶岩が流れた痕跡、言い換えれば日常を逸脱した光景の中を、驚きを以って歩くことができる。
一歩一歩踏むごとに、火山国に住む心づもりを腑に落ちていく感であった。
ところで、この地にはもう一つ心を惹かれたものがあった。
ここ鬼押出し園周辺の地名を「嬬恋村」(つまごい)という。
道看板で見つけた時、とても美しい名だと思った。

「嬬恋」の名の由来は、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の東征中に、海の神の怒りを静めるために愛妻「弟橘姫(おとたちばなひめ)」が海に身を投じた。
その東征の帰路、碓日坂(今の鳥居峠)に立ち寄り、亡き妻を追慕のあまり「吾嬬者耶(あづまはや)」(ああ、わが妻よ、恋しい)と嘆き、妻をいとおしんだという故事にちなんで嬬恋村と名付けられた。(嬬恋村役場HPより引用)
これまで訪れた安曇野、千曲、嬬恋、後に行く諏訪など、声に出して読むと何やら懐かしい気持ちになるのはどうしてか。
究極の美しさ
しみじみ思うのだが、私が知らないだけで日本には絶景と呼ばれる所が多い。
絶景も大きく分ければ、人工美と自然美に分けられる。
何万ドルという夜景に代表される人工美も美しいが、やはり自然美には敵わないと思う。
鬼押出し園から約10km南東に走ると、

涼しい風がせせらぎの音と共にやってくる。
だが次第にせせらぎの音とは、別の大きな音が重なってくるように感じた。

「白糸の滝」
全国には同じような名前が幾つかあるがこの滝はどうだ。
高さ3m、幅70mの湾曲した岩肌から横一線に噴き出す水は、幾条の糸を垂らし、うんと頑張って手を伸ばせば届きそうではないか。

案内板には浅間山に降った雨が6年程度かけて地下へ浸透し湧き出るとあった。
地下水だからきっと冷たいだろうと思い、手ですくってみると意外にも温かい。
どうやら火山活動に伴う地熱の影響らしい。

私は身じろいもせず、自然が創り出した傑作を見つめた。
すると当初優雅に見えていたものが、案外素朴であるように思えてきた。
もしかすると、究極の美しさとはそのようなものかもしれない。
軽井沢でランチ
ところで、このブログカテゴリーを「長野家族旅行」としているが、先日書いた草津は群馬県である。
ブログ記事でいえば「草津の湯」「浅間山」までが群馬県で、昨日分の「白糸の滝」から再び長野県となる。
余談だが、浅間山は頂上を境として群馬県と長野県で分かれている。
草津が群馬だとか、軽井沢が長野だとか関東甲信越にお住まいの方であれば、何を当たり前なことを。と嘲笑されるのであろうが、本州西端に住む私はこれらの名は聞いてこそあれ、いざ白紙の日本地図に場所を明記せよと言われると手が止まってしまう。
毎日見ているスマホのマップも自分が住む広島周辺以外は、特別なことがない限り見ることはない。
例え見たとしても、ふ~んといった感じで位置関係まで頭には入ってはこない。
現地を駆け訪れて、また帰ってきて懐かしむように地図を何度も見ることで、なるほど、あそこをこう通ったのか・・・などと、徐々に理解するのである。
普段行かない場所とは、そういうものなのだと思う。

標高約940m、平均気温9度、夏は20度前後と過ごしやすいことで知られる日本一有名な避暑地、軽井沢。
駅周辺は賑やかそうであったが、一本道に入るとクモの巣状に区画整理され、木々に囲まれるように、ぽつぽつと別荘が点在する。
まだお昼を食べていない私たちは、

「ハルニレテラス」にある「イタリアン イル・ソーニョ」に入った。

私は外の景色により一層に染まってやろうとバジルパスタを注文した。
いつもは洋食とは縁のない両親であったが、不慣れなフォークを使いながら美味しそうにしている風景は一緒にいて嬉しかった。

何故、ここを昼食の場に選んだかとタネを明かせば、何のことはない。
「軽井沢でランチした」
と田舎者は一度言ってみたかったのである。
富士を追いかけて、また。
登場する地名を見て、そろそろお気付きの方もおられると思うが、この旅は松本市を起点とし、ぐるり時計回りで長野県を一周するルートに設計した。
「設計」とは自分でも大袈裟な表現かとは思うのだが、実際は3泊4日にしては詰め込め過ぎの旅程で、弁当箱に例えるならば、唐揚げとハンバーグと玉子焼きのわずかな隙間に、無理矢理タコさんウインナーをねじ込んだようなものなのだ。
これについては最後に追記する。
話を元に戻す。
巡った位置を時計で例えると、松本が9時ならば、軽井沢は3時。
ようやく半周したといったところであるが、何と本日は一気に7時の諏訪まで針を進める。
浅間山の裾野を通る浅間サンラインで一旦西に進み、

上田の手前からは南下する。
3度目の千曲川を渡り、152号が白樺湖に突き当たった所を西に進路をとると、

道の名はビーナスラインという名称に変わった。
諏訪へ行くルートには3つの候補があったが、この道を選んだのには理由がある。
私は事前に調べてあった地図からビーナスライン上に、「霧ヶ峰富士見台」という文字を見逃してはいなかったのだ。
まったく懲りない奴である。

だが、車から降りてすぐ一目で分かると思っていたものの、それらしき影も形も見当たらない。
それでも諦められずに目を凝らしていると、遠くの山と山の間に鮮明ではないものの、かすかに輪郭と冠雪が観えるではないか。
こうなれば大騒ぎである。
まさか100km以上離れた地点から観えようとはと感動もひとしおで、

あたかも遭難中の大海原で島を発見したように歓喜した。

再び車に乗り込み、ワインディングロードは約700mの高低差を一気に駆け降り、

最後の目的地である諏訪へ到着した。




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