② 飛騨高山の旅 Day2|山里に息づく暮らし ― 白川郷から奥飛騨、新穂高温泉へ

岐阜

暮らし続ける世界遺産

 翌朝は障子の隙間から漏れた光で目を覚ました。

早起きは何度もしたことがあるが、こんなに早起きして良かったと実感できた朝は私の人生に何度もない。

むくりと起き上がり、一人外へ出た。

風はまだ冷たい。

青い稲穂が静かに寄せる波のようになびいて風のありかを示し、

もう気の早い赤とんぼがその中を泳いでいる。

朝食後、この場所にずっと留まることはできないと知りながら、

出発直前まで惜しむよう過ごした。

 白川郷合掌造り荻町集落は、ほぼ庄川の右岸に広がる三日月形の河岸段丘、南北約1500m、東西約350m内に身を寄せ合うように存在する。

地図で見ると、さもありなん。秘境である。

白川郷は深い山に囲まれ、どうしてここにだけと目を見張るような、ぽっかり空間が開けた場所にあるのだ。

このような地形に加え、屈指の豪雪地帯であったことから道路整備が遅れたことで、合掌造りの住居構造が今日まで残る結果となった。

神田家は屋内を見学用に解放した4階構造の家で、

まず入ってみるなり、惚れ惚れさせられた。

それは見事な木組みであった。

そもそも合掌造りとは、外見は勾配の急な茅葺きの屋根と、

内部は梁(はり)の上に手の平を合わせ山形に組み合わせたのが特徴で、

よくぞこのような技の粋を集めたエネルギーの塊とも思える巨大建造物が、時代の波に吞まれることなく現存してくれたと小躍りしたくなった。

人が絶えれば遺跡となり、いずれは朽ちて消えゆく運命にあったであろう。

他の地域の民家と五箇山や白川郷の建物が大きく異なるのは、

屋根裏を蚕の飼育場として活用している点だ。

土地の面積が少なく、主要産業を持たない村にとって、幕末から昭和初期にかけ、養蚕業が収入を支える柱となった。

神田家では2階と3階がその養蚕作業場にあたった。

その養蚕。

もう一軒立ち寄った和田家では、

生きている蚕が桑の葉を食べているのを見ることができた。

吐き出す液状絹は、空気に触れると繊維化して糸になるのだが、

生糸のままでは細すぎるので、数本または数十本を撚り合わせ適当な太さにしてから紡績絹糸の材料とし、国内では高級糸として西陣織、海外へは高級品として、合成繊維が開発されるまで日本の発展、近代化を支えた。

 展望台に向かうバスの中、運転手が教えてくれた。

「あそこの合掌造りも、あそこの合掌造りも人が普通に生活をしているんですよ」

先程の和田家もそうであった。

私がはっとさせられたのは、五箇山、白川郷は観光客を呼ぶテーマパークではないということだ。

今もしっかりと生活が息づいている。

参考資料

「白川村役場HP」「神田家HP」「和田家」「蚕(Wikipedia)」

「パールトーン(お蚕さんの繭が生糸になるまで)」

未来へ受け継ぐ風景

 展望台で夢中になり写真を撮っている私に外国人男性が話しかけてきた。

欧米から家族旅行で訪れているのは雰囲気で判った。

しかし、普段聞き馴染のない言葉だからよく分からない。

こいつに英語は通じないと、いち早く悟ったか、今度はジェスチャーに換え、必死に木々の方を指さし、耳に片手を当てセミの大合唱を身振り手振りで伝えようとしていた。

ああ。と気付いて、スマホでセミの英語スペルを見せた。

もはや日本人にとって蝉時雨は夏の風物詩として不感症に近いが、そうでない気候に住む外国人にとっては耳をつんざく音に相違なかったであろう。

「どこから来たのですか?」

だけは分かったので、広島だと伝えると、相手はフランスから来たのだと言う。

お互いGoogleマップで見せ合うと、居住地がパリだと分かった。

「なんだ、巴里(パリ)っ子じゃない!」

と思わず叫んだら、「そう。巴里っ子です!」

とそこだけ、私の調子に合わせるようカタコトの日本語でおどけて喋ったものだから、あはははと笑ってしまい、満面の家族写真を交互に撮り合った。

 展望台から見た原風景が心から美しいと思えた大きな要因は、それぞれの合掌造り家屋が、

ほぼ同じ角度でこちらへ堂々顔を向けていたからだ。

建物の屋根が揃って東西なのは、養蚕業を生業としていたのでやむを得ず、風通しをよくする構造にし蚕の病気を防ぐ役割もあったが、谷からくる強風から屋根の抵抗を最小限に留め、日照時間を長くすることで大量の雪を溶かし、長持ちさせる効果があった。

故に葺屋根の寿命は短い。

大規模な補修や屋根の葺き替えを30年から40年に一度大勢で行う必要がある。

つまり、この角度は村人たちに生まれた強い結束と、ここで生きるんだという集合写真に写った強い意志と覚悟の表情のような気がした。

 もし私がここに住めと言われれば、色々妄想して一時的に歓喜するかもしれないが、良い意味でも悪い意味でも雑踏の世界から隔離された場所に、よく考えなくとも、こんな落ち着きも根性もない男が住めるはずもない。

それに瀬戸内の気候でぬくぬくと育ってきた甘さがある。

だから真の冬の過酷さを知らない。

私の過去をどんなにほじくっても体験したことのない厳しいものであろう。

そういう意味でここに住む人は芯から強いと思う。

わずかな時間しか滞在しないのに何を言いやがると言われるかもしれないが、単に凄いとか、美しい・・・

だけでこの地を去る一人であってはならないとも思うのだ。

と一人息巻いても仕方がない。

しかし、良いのだ。

国内、海外を問わず多くの人々が知ることで、この風景が残るのであるならばきっと未来へ繋がるであろう。

旅は参加してこそ面白い

 白川郷ICから例の飛騨トンネルを抜け、飛騨清見ICを出てからは東へ舵を切る。

高山を過ぎ、しばらく平坦な道が続いたが、道の両側に山が迫りくる辺りから、国道158号線は長い上り坂に変わった。

この158号線、そのまま東へ向かえば松本へ辿り着く。

しかし、その間には厚く高い壁、つまり北アルプスが行く手を阻むのだ。

かつて安房山を越えるには細く狭い山道を離合を繰り返しながら5時間以上も要し、冬場は積雪で長期間に渡り通行止めを余儀なくされたらしいが、安房トンネルが完成してからは約5分で抜けるようになったという。

しかし、私たちはトンネルを抜けない。

計画通りアルプスの壁を前に北上し、新穂高へと舵を切る。

トンネル先の上高地を歩くには、もう少し娘の成長を待たねばならないのだ。

 時に、この旅は小学1年生にしてみれば、金沢の町並みや白川郷など、割と渋い大人の旅程となっている。

良さが分かり楽しめるまでは、まだ少し時間が必要だろう。

これこそが旅前の立案時点で不評であった理由だ。

そこで、

当然ながら娘が退屈にならないよう考慮する必要があったので、奥飛騨クマ牧場を、予定に入れるべくして組み込んだ。

ここではツキノワグマにエサを与えることができたり、子熊との記念撮影ができる。

撮影時間内に到着できなかったが、

エサをあげようとすると、おねだりする格好が余程可愛かったらしい。

「今から投げるよ~」

一頭、一頭と会話をするかのように、公平に与えようとする後姿は微笑ましかった。

空になったエサ箱に残念がっていたので、私の分の箱を渡すと大そう喜んだ。

 もう1つ。

行き先を私が握るハンドルに、ただ委ねるだけではつまらないだろうと思い、合掌造り以外の宿は、企画時点で娘に最終決定権を渡していた。

幾つかの候補があったが、新穂高温泉「深山荘 別館 槍の郷」(やりのさと)に即決した。

娘の決め手は、

ホームページに掲載されていた飛騨牛や川魚料理ではない。

貸し切り露天風呂の中にブランコを見つけたのだ。

言わずもがな娘は夜だけでは飽き足らず、翌日の朝食前にも湯に浸かっている。

生まれてこのかた、寝を優先し、朝風呂には興味がなかったことを思うと別人だ。

私も腰を掛けてみたが、色々な意味でも開放的な気持ちになって、

何を思うことなく、ただ遥かにある日本の屋根を揺れながら眺めた。

3日目の朝は心配された台風の影響もなく、快晴で始まった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました