⑤ 夏の北海道を走る Day5|札幌名所の時計台と羊ヶ丘展望台を巡り、忘れられない北海道の旅を締めくくる

北海道

40年後の時計台

 包み隠さず書くと、私が札幌に来るのは今回で2回目となる。

以前といっても、小学生高学年の時分だから少し記憶は曖昧だ。

その時、時計台に寄りはしなかったが、バスで通り過ぎる時、ガイドさんが「左手をご覧ください」と半ば説明をぼやり聞いている中、

意外に小さいんだなぁ。

という視覚的記憶だけは鮮明に残った。

ところが、この小さな建物こそ、日本の近代化に大きく貢献した時代のシンボルだと私が知るのは、40年後の白髪が混じったオジサンになってからのことである。

(以下、札幌市時計台パンフレット「時計台の歩み」、Wikipediaから引用)

 1878年(明治11年)、この建物は明治政府により、北海道大学の前身である札幌農学校の校舎として、北海道開拓のリーダーを育てるために建てられた。

1階は教室や標本室、2階は講堂や軍事演習の場として使用され、

旧五千円紙幣になった新渡戸稲造や、内村鑑三など多くの優秀な人材を輩出した。

ここで初代教頭となったクラーク博士に登場してもらいたいところだが、それは後で行く「羊ヶ丘展望台」で書くことにする。

 2階で私の目を引いたのは、時計台と同じハワード社製の時計機械である。

外観の時計は、重りが下がる力を動力として鐘を鳴らす振り子時計で、鐘を打つために150kgの重りと、針を動かすための50kgの重りが吊るされ、今も3〜4日に一度、職員が掃除や注油を行いながら巻き上げている。

驚くべきことに、明治が終わるまでに72の西洋式時計塔が日本中で建設されたが、当初の姿のまま、現在も時を刻んでいるのは、この札幌市時計台のみである。

 ちょうど10時の鐘の音が鳴った。

敬意をもって、

大好きな映画「Back to the Future」のワンシーンと同じポーズをとってみた。

上から見ないと分からない

 時計台から3分も歩けば、さっぽろ雪祭りで有名な大通公園に出る。

大通公園は東西約1.5kmにわたって続く長大な公園で、物差しをそっくりそのまま地図の上に置いたような長方形をしており、

さっぽろテレビ塔は、その一番端に位置する。

次なる目的地は、テレビ塔である。

 ときに、私が旅に出るなどして高い所に上る理由は、一つに美観を楽しみたいもあるが、もう一つには、札幌の碁盤の目のような場所などは特に、自分が今どこにいるのかが分からなくなってしまう。

そこで地形を鳥瞰図に近い状態で把握しないと、どうにも落ち着かなくなるからでもある。

タワーの高さは144mと、東京タワーの半分にも満たないが、

周囲に匹敵する建物が少ないため、遠くまで見渡すことができた。

開拓時代の人から見れば、これはどうしたことかと目を見張る風景であろう。

Boys, be ambitious

 アメリカ人の教育者、ウィリアム・スミス・クラーク博士は、

誰もが知る人物であるが、8ヵ月しか日本にいなかったことはあまり知られていない。

 1876年(明治9年)、日本政府からの要請を受け、札幌農学校の初代教頭として来日する。

当時、暴力事件が続いたことで、厳しい校則であったものを全て廃止、「Be Gentleman」(紳士たれ) の一つだけとし、自分の責任は自分で取りなさいと、自主自立を促すのである。

また、知識、技術に偏るのではなく、人間性を全面的に、そして調和的に育むことを教育の柱とした。

それは先生という絶対的立場ではなく、一人の人間として向き合い、信頼し互いに学び合う姿勢が若者たちの心を動かした。

マサチューセッツ農科大学の学長職に戻らなければならなかった博士は帰国する際、見送りに付いてきた生徒たちに、この有名な言葉を残す。

Boys, be ambitious!

やがて精神を受け継いだ卒業生たちは、農業だけに留まらず各分野で活躍をしていく。

名前を挙げるならば、国際平和に貢献した新渡戸稲造、世界的植物学者として評価を得る 宮部金吾、

言語学の先駆者といわれる 大島正健らである。

 不思議なことに、このポーズをするため長蛇の列ができていた。

老いも若きも関係なく、堂々恥じることなく右手を挙げて写真を撮っている。

普通に考えてみると、シャイな日本人にしては頑張ったポーズではなかろうか。

だがしかし、誰もが胸を張ってこの格好をするのである。

まるで、その言葉に恥じない生き方を若者だけでなく、何歳になっても忘れぬよう自分に対し、宣言しているようでもあった。

夏の北海道を走る

 北の大地から車輪が離れた。

程なく眼下に点在する建物や広大な畑が小さくなってゆき、すっかり雲に呑み込まれてしまうまで、そう時間はかからなかった。

振り返れば、北海道は大自然の宝庫であった。

それは、火山であり、広大な大地であり、海の幸であった。

また、独特の文化が積み重ねられた歴史があった。

それは、古来からのアイヌ民族の生活であり、外国の勢力から守り、発展させようとした開拓者たちの歴史でもあった。

これにより多くの犠牲があったであろう。

多分、このあたりを短く表すことは難しい。

 つい、自然も歴史も理解したつもりになっている。

今もそうだが、全部なんて理解できるはずもない。

しかし、触れなければ、ずっと知ることはなかった。

きっと私なりの旅する目的の本質の一つは巡ることではなく、「発見すること」なんだろうと思う。

地図の上に足跡を付けてみて初めて、その地がどういうものであるのかという一端を知ることができる。

外観だけでなく、内観を通すと、ただそこに転がる石も価値ある石になる。

それが日常生活においてどう活かされるかは分からない。

が、それで良いのではないかと思う。

 さて、お陰様で今回の旅も思い出をたくさんつくることができた。

テレビを見ていて、行った場所など登場すると、あっ!と指をさし叫んで、あそこでこんなことをしたね。

などと、その場面で共有したことが思い出される。

このような時、私たちは瞬時にそこへ戻ることができるのだ。

そう考えると、もう一つは 「残す」 ことだろう。

形や物はいつか廃れてしまうが、思い出はいつまでも鮮やかに残る。

 とまあ、少し格好よくまとめてみたものの、実のところは違う。

また旅に出るための理由をつくるために、旅をしている。

それが本音なのかもしれない。

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