日本じゃないみたいだ。
竹田は、たけだと濁らずに、たけたと読む。
それを現地で初めて知った。
竹田に城があるから竹田城と思いきや、岡城。
そういうレベルである。
岡城跡は城下町から一線を画すような場所にあった。
だから、いきなり現れた。
例えるなら山道を歩いていて、突然巨大な岩壁に出会ったような衝撃と戸惑いがいっぺんにきた感じ。
私は歩きながら呼吸を整えた。
整えつつ、その戸惑いの正体を探った。
すると、ある違和感に気が付いたのだ。

果たして、ここは日本の城なのか・・・と。
そんなことは一にも二にも考えるまでもないのだが、雰囲気的にはペルーや中東の遺跡を散策しているのではあるまいかという

錯覚を覚えたのだ。

行ったことないけど。
地上に降りたラピュタ
岡城跡は阿蘇溶結凝灰岩の台地の上に、堂々と腰を据えていた。
別名「臥牛城」 と呼ばれるのも納得である。

その広さは、実に約100万㎡。という途方もないデカさで、また、石垣しか残っていないにもかかわらず、

重厚な石垣は、

地上に降りたラピュタを思わせた。
その後、白滝川から見上げた時、宙に浮いているようにも見えた。
城のパンフによると、大野川の支流である稲葉川を北に、白滝川を南に臨む険しい地形に築かれ、その堅固さは、天正14年(1586)に始まった島津氏と大友氏の戦い 「豊薩戦争」 において、岡城攻めを企てた島津軍を撃退したことからも、その堅固さがうかがえる。

しかし、明治維新後に城館は壊されてしまい、今となっては在りし日の姿を偲ぶのみとも書いてあった。
記憶のピース
岡城跡とはどんな姿なんだろう?
私はここに来る前、車中で頭をひねっていた。
大阪城も名古屋城も姫路城も目に浮かぶ、しかし、どうも私にはそれをイメージする原材料というべき ” 絵 ” が思い浮かばない。
天守や御殿が残っていないが残っていないというのはそういうものか。
と、思っていた。
ところが、三ノ丸跡の石垣を見た時、古い古い記憶が蘇ったではないか。
音楽の教科書にあった一枚の写真。

あぁ、ここだ!ここだ!ここにあったのか!
思わず叫んでいた。

少年時代、竹田で一時期を過ごした滝廉太郎は、よく岡城跡で遊んでいた。
代表作「荒城の月」 は、その頃のイメージが反映されているといわれている。
城の駐車場に戻る途中の土産屋で、気さくなおばちゃんに声を掛けられた私は、聞かれもしないのに、どうして竹田に来たのかを熱く語っていた。
ところが、意外な答えが返ってきた。
「もう教科書に載っていないのよ」
「えぇ!?そうなんですか?勿体ない・・・」
ということは、今の子どもたちは私のように岡城跡に行く理由を一つ、知らず知らずのうちに失ったことになるのかと、何だか少し寂しい気持ちになった。
ともあれ、来れて良かった。
私の中で記憶のピースがきれいにはまり、心は晴れやかだった。

↑昭和男、滝廉太郎氏像に逢い喜ぶの図
きれいですねぇ。
城下町から南に10分程で、日本名水百選に選ばれた竹田湧水群の一つ、「河宇田(かわうだ)湧水」へ到着した。

看板によると、阿蘇に降った雨や雪は地下へ浸透し、地層や溶岩層を通る間に磨かれ、数十年という長い年月をかけて竹田の湧水となるという。

河宇田湧水は、一日に約8,400トンもの水が湧き出しているという。
記述した湧水量は地上湧水量だけであって、河川中に湧水する量は計り知れない。
河宇田湧水にあっては、湧水滑り台があり、夏は子どもの天国となる。
とも書いてあった。

そうならば!
と、車に置いてあったペットボトルのお茶を慌てて飲み干し、

大地の恵みというべき湧水を注いでいく。

実はここ河宇田湧水は、今回の旅の中、娘に、「もう行くよ~」 と何度も促しても一向に動こうとしなかった唯一の場所だった。

おそらく目の前で、こんこんと水が湧き出る様は、あたかも生きているように観えたのだろう。
「だから、いつまでも観ていて飽きないのよ」
きっと娘は、そう思っていたのだろう。
ただ一言、それらを集約した言葉をしみじみ置くようにつぶやいた。
「きれいですねぇ」
明治と大正の匂い
「明正井路(めいせいいろ)一号幹線一号橋」 は、看板や資料によると、

灌漑用水路として、大正8年に竣工した石造アーチ橋で、「明正」の名は、計画及び工事が明治時代から大正時代にわたって行われたことに由来している。
長さ88.9m、高さ13m、幅2.8m余りで、6連橋としては日本唯一。
導水路幹線部分は約48km、分派用排水路は約127kmに達し、総延長は175km。
包容面積約2323ha、開田面積約402haという極めて広大な面積を潤す水路である。

構造は、6連のアーチ上に4段の石壁を積んだ「布積(ぬのづみ)」という方式で、いかにも明治、大正の匂いを全身からプンプンさせていた。
私はこの重厚な造りを観ていて、

昔の麦焼酎のCMに出てきそうな哀愁が漂い、急に懐かしい心持ちになった。

どうしてかは分からない。
が、車を走らせても尚、

その匂いは私の鼻の奥をくすぐり続けた。
天女に出逢った日
次の目的地を白水ダムにした。
スマホのマップでも直線距離で約3.5kmだからそう遠くない。
そう思ってカーナビに入ると、なんと約10kmと出た。
誤表示ではないかと思った。
と一瞬疑ってしまったが事実らしい。
これはその次に行く円形分水までの道にも言えることなのだが、カーナビ上には目的地は見えているのに蛇がうねっているような道が通せんぼをしている。
これが先日濡れたTシャツの細かいシワと表現した独特の険しい地形なのだ。
ようやく着いた通称 白水ダム。
正式名称はとても長いので割愛するが(笑)。
” 日本一美しいダム ”
称されるというフレーズを見、引き寄せられるように山中に来たが果たして・・・
はやる気持ちが前に飛び出すような格好で駐車場から駆けた。
そこには息を呑む程の美しい羽衣をまとった

天女がいた。
思わず見とれてしまった・・・
天女と初めて出逢った人の心境が、少しだけ分かった気がした。
さて、ここからは現実的な話。(以下、Wikipediaより抜粋)
越流型のダムの表層は石造とされている。
堰堤の両端部にはそれぞれの地形に応じて、右岸端部には武者返しの曲面流路、左岸端部には階段状の流路が設けられており、水流が強まると左右の流路からの水流が、中央部の水流を弱めるようになっている。
竹田市周辺は阿蘇山周辺の火山性地質で地盤が脆弱であることから、落水時の衝撃による基礎部崩壊を回避するために、曲面水路や両端の流路などが工夫された。

ここからはどうでもいい話。
後日、私はこの流れる爽快かつ大音を、どう表現するべきかを探した。
また身近な音に置き換えることができないかと思った。
約2時間考えて、やっと身近な音に思い当たった。
これは非常に雑な表し方でもあるのだが、これ以外にない。多分。
満水のお風呂に勢いよく肩まで浸かった時、僅かな時間ではあるが、大量の水が一気に溢れ出るあの大きな音に非常に似ている。
とても開放的であり、心地いい音だ。
しばらく湯舟に入ったつもりで、羽衣を滑る水音を回想した。
知恵と和の泉
山の中にポツンと、まるで大地の底から湧き出てくるような一角があった。
水の塊がこんもりと盛り上がり八方に散ったかと思うと、また次の塊が現れるという、途切れることのない一つの知恵と和の泉。

音無井路十二号分水(おとなしいろじゅうにごうぶんすい)という。
この施設には深い歴史がある。
深いがために、ここでは一部のみの紹介となってしまう。
(以下、Wikipediaより抜粋)

取水口から十二号分水までの水路は明治25年(1892年)に完成したが、ここから三線の幹線水路に分配する水の量を巡って、争いが起こるようになったことから、昭和9年(1934年)に円筒分水が設けられた。
音無井路十二号分水の円筒分水は、

サイフォンの原理を利用して円筒の中央から湧出する0.7m3/sの水が、その外側に設けられた円筒へ均等に穿たれた20個の四角形の小窓によって分水され、最外周に三分して設けられた分水枡に貯められた後に3つの幹線水路に注ぎ込むようになっている。
20個の小窓は3つの水路に割り当てられた水量に比例して、それぞれの水路に5個、8個、7個が割り振られている。

後で知ったのだが、この円形分水、日本各地に存在する。
広島県にも、私の地元の山口県下松市花岡にもあることが分かった。
しかし、このような凄い技術の塊が、ポツンと山の中に人目をはばかるようにあること自体、衝撃的・・・
長く水田耕作が主体であった時代に、争うことのない平和な社会をもたらすために造られた先人たちの知恵と和の結晶。
それが今も途切れることなく溢れて続けている。
サイフォンの原理が解る動画
→ 【年長児からできる】おもしろ実験♪ストローで水が移動する?
すべては阿蘇につながっていた
9時過ぎに宿を出て、岡城跡を立ったのが正午前、そこから、河宇田湧水、明正井路、白水ダム、円形分水と立て続けに巡り、昼食は陽目(ひなため)の里 名水茶屋にて、名物、田楽料理と思っていた。
が、
無計画旅行のツケというべき、冬季期間営業休止の文字に、さあどうする?と困った、困ったの車内である。
いやしかし、ここまで来て目の前にある大滝を見ずに帰るのは心残りと、昼寝から覚めたばかりの娘を抱えて渓谷内を歩くことにした。
一つ奇妙なことがあった。
滝までの間、道沿いの高い位置の岩壁から所々水が噴き出しているのである。
前記の通り、娘を両手に抱いていたので、写真に残せていないが、それは映画やゲームの世界に出てくる景色だった。
しばらく進むと、高さ約38mの「白水の滝」。

幾筋もの糸のような滝となって流れ落ちて、その滝水が白く見えることから、そう呼ばれる。

看板に、高い位置から水を吹き出す理由として、高原に降った雨は地下へ染み込み、長い年月をかけて阿蘇の火砕流堆積物の境界へ達する。
そして、その亀裂から湧き出した水が白水の滝となるという。

この湧水は高原の地下を少なくとも何十年かかけて旅してきたものである。
私は阿蘇という文字が幾度も登場していることに気付いた。
ここはもう熊本との県境で、阿蘇の外輪山まで直線で約10kmという位置。
そろそろ鈍感な私でも火の山、阿蘇山の破局的な大噴火がいかに、今まで旅してきた場所に影響しているかが、おぼろげに観え始めた。
それは次に行く原尻の滝の衝撃に繋がるのだが、その前にお腹が減った・・・
火の山がつくった大地
今度は、豊肥本線の線路をほぼ沿うような形で竹田方面に向け東進する。
時刻は15時半近くとなり、今、ガッツリ食べると夕食が食べられなくなるということで、途中にやっと見つけたコンビニのミニ大福を頬張りながらお腹を満たした。
正直なところ、私はこのブログを、広島に帰り、ほぼゼロから少しずつ知識を積み重ねながら書き進めている。
だから、阿蘇山の破局的大噴火は、知れば知る程衝撃的であった。
阿蘇火山の活動は約30万年前に始まった。
現在の阿蘇カルデラが形成されたのは7~8万年前であるが、30万年から7、8万年までの間に4回の大噴火があった。
これらの噴火と噴出物を古い方からAso-1、Aso-2、Aso-3、Aso-4と呼んでいる。

(火砕流」って何? | 阿蘇火山 より aso-volcano.ysklog.net)
特に今からおよそ9万年前に起こったAso-4の破局的噴火は、大量のマグマや火砕流が一気に噴出し、発生した火砕流は九州の大半を覆い尽くし、遠くは本州山口県まで到達した。
ただの噴火ではない。
どの資料を見ても ” 破局的噴火 ” と表記してある。
豊後大野の大地にも火砕流が谷を埋め、厚くたまった部分に
柱状節理(冷え固まる際にできた柱状の割れ目)ができた。
その柱状節理が顔を出している場所、それが旅の最終目的地、原尻の滝。
それまで点でしか見えていなかった景色が、この時ようやく一本の線でつながった。

(参考:日本の活火山 阿蘇火山地質図、火砕流」って何? | 阿蘇火山、コトバンク、20万分の1日本シームレス地質図、パンフレットより)
大地の抱擁
「ちょっと待ちなっ!」
私の制止を振り切り娘が走り出した。

高所恐怖症の私と相方はそろりそろりだが、そんなことはどこ吹く風。
滝見橋は中央に行く程、上下に揺れた。

Aso-4の火砕流による溶結凝灰岩でできた、原尻の滝は、写真で見ていた以上に、ずっとずっと規模が大きかった。
荒々しさを残しながらも、

自然の大きな抱擁感と解放感が共存する空間であった。
娘はそれに包まれたのだろう。
すこぶる機嫌が良い。
私もすっかり魅了されていた。
何とも粋な計らいというか、滝のすぐ上流には沈下橋があり、

360度、さまざまな角度から眺めることができた。

また、滝つぼ近くまで降りることもできて、

大瀑布のマイナスイオンを、これでもか、という程、全身に浴びまくった。
そして九万年前の大噴火が、今、目の前で一つの風景になっていた。
大分は石と水の国
ふらり、竹田にとんぼ返りした。
そうそう。最後にこれは書いておかねばならない。
昨日、ここに来た時もそうだったが、城下町に至るには、稲葉川沿い以外はおそらく、すべて、トンネルを通り抜けなければならない。

ざっと数えただけでも10本はあった。
今となってトンネルは、外と内を繋ぐ境界の役割を担っているように思えるが、昔はそんなものなどなかっただろう。
きっと、これは念入りに計算された天然の城壁だったに違いない。
したがって、城下町は攻められにくい、すり鉢のような地形にスッポリ護られている。
ところで、どうして再び戻って来たかというと、豊後竹田駅の近くに、「花水月(はなみづき)」という温泉があって、
最後の最後に自身を丸ごとドブンと大分に漬けてやろうと思ったからだ。
入れば、

男風呂には、白水ダムを模った石の彫刻から湯が流れていた。
後で妻に聞くと、女風呂は円形分水を模ったものがあったらしい。
私は、湯けむりの中、ちゃっぽん、ちゃっぽんと水面を何度も叩いたり、すくいながら、
昨日からこれまで寄った場所を順々に思い返していた。
思い返しながら、しみじみ、大自然の恩恵に感謝した。
さあ帰ろう。
湯気をコートの中に宿したままエンジンをかけ、城下町を出るトンネルに入る。
誘導するカーナビが来た時と同じ会々(あいあい)という名前を告げた。
不思議とこの短いトンネル、この旅そのものが凝縮されているような気がして、抜け出た時、また舞い戻って来るんだろうな。
と思わせた。
18時30分に立ち、広島にちょうど24時着。
さてさて、長く15回に引っ張った1日半の臼杵~竹田の旅はこれにて終了。
石が大地をつくり、水が命を育てる。
そんな大分の姿を、少しだけ知ることができた旅だった。




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