目ではなく、耳に残った地獄
雲仙地獄は、島原半島の中央にそびえる雲仙岳が、今も火山であることを目の前で体感できる場所であった。

硫黄の匂いが漂う中、噴気の中をくぐった時、その熱気を肌で感じたことにも驚いたが、

最も記憶に残ったのは「音」であった。

地獄一帯では、高温の硫化水素を含んだ噴気が地表の岩石を変質させ、辺りを白く荒涼とした大地へと変えている。

地中から噴気で盛り上がり成長する円すい形の小さな山が幾つも形成された「泥火山」といった静かで独特な景観もあったが、それ以外では至るところから、激しく噴気が立ち上っていた。

ある場所では、圧力を逃がすように「シュー」と鳴り、またある場所では、地面の下から「グツグツ」と音を立てる。
まるで私自身が巨大な鍋の中に放り込まれ、調理されているかのようであった。

昨日、小地獄温泉で浸かった乳白色の湯もまた、この火山活動がもたらした恵みの一つ。
地下深くにあるマグマだまりから上昇した火山ガスが、地下水や雨水と混ざることで温泉となり、小浜温泉、雲仙温泉、島原温泉へとそれぞれ異なる泉質の湯をもたらしている。

雲仙地獄は、地下で今も続く火山の営みを、目で見て、匂いを嗅ぎ、熱を肌で感じ、そして音で聞く。
大地が生きていることを、身体全体で感じることができる場所であった。
そして次なるは、この大地をつくり上げてきた雲仙岳そのもの。
その姿を見に、さらに標高を上げてゆく。
山は、まだ完成していない
仁田峠には、妙見岳の山腹へと伸びる雲仙ロープウェイがあった。

ところで、私はここに来るまで、

雲仙岳という一つの大きな山があるものだと思っていた。
しかし、実際はそうではなかった。
遠くから眺めると一つの山のように見える雲仙岳は、普賢岳、国見岳、妙見岳、九千部岳、野岳など、いくつもの山々からなる火山群の総称であったのだ。

その大きさは東西約10km、南北約15kmにも及ぶ。
しかも、これらの山々が一度にでき上がったわけではない。
およそ50万年前から雲仙火山の活動が始まり、まず高岳や絹笠山などの古い山々が形成された。
その後、火山活動の中心を移しながら、九千部岳などが誕生していき、さらに、およそ10万年前からは野岳、妙見岳、そして普賢岳などが順に形成され、長い年月をかけて、現在私たちが目にする雲仙岳の姿がつくられていったのである。

つまり、今目の前に広がる雲仙岳は、約50万年という途方もない時間をかけて、火山活動の場所を変えながら、少しずつ形づくられてきた火山群なのである。
いや、「形づくられてきた」と過去形で書くのも正しくないのかもしれない。
何故なら、この山は平成になってからも、その姿を大きく変えているからだ。
1990年11月、普賢岳が198年振りに噴火した。
翌年になると、地下から上昇してきた粘り気の強い溶岩が地表へと押し出され、流れ下ることなく山頂付近に積み重なっていった。
こうしてできた溶岩ドームは、新たな溶岩が供給されるたびに成長し、やがて普賢岳を超える高さにまで達した。

それが、現在の雲仙岳最高峰「平成新山」である。
しかし、この新しい山が生まれるまでには、決して穏やかとはいえない出来事があった。
その話については、後ほど「がまだすドーム」を訪れた時に改めて触れたい。
まずは、

せっかく雲の近くまで来たのだから、この高さからしか出合えない絶景を心ゆくまで楽しむことにした。
白亜の天守に隠された歴史
雲仙岳で大地の歴史を辿った後は、山を下り、人が刻んだ島原の歴史へと向かう。
車が角を曲がったところで、いきなり島原城が現れた時、私は思わず、
「うわぁ、綺麗!」
と感嘆の声を上げた。

白い五層の天守が青空に映え、城の周囲には石垣と堀が巡る実に均整のとれた姿だ。
しかし、この白く輝く島原城の地にも、かつては、今の静けさからは想像できない歴史があった。
城内を下層から巡り、展示された資料を一つ一つ見ていくうち、この城が築かれた松倉氏の時代に、やがて島原半島を揺るがす大事件へと繋がるいくつもの火種が、重なっていったことを知った。
島原城の築城が始まったのは、江戸時代初期の1618年。
この地を治めていた松倉重政によって築かれ、完成までには約7年の歳月を要した。
島原藩の石高に比して大規模な城であり、その築城や城下町の整備は、領民にとって大きな負担となった。
しかし、後の一揆へとつながった理由は、それだけではない。
松倉氏の時代には、幕府の禁教政策のもと、キリシタンへの厳しい弾圧が行われ、二代藩主・勝家の時代には苛烈な年貢の取り立ても行われた。
重い年貢、過酷な取り立て、信仰への弾圧。
そこへ凶作まで重なり、人々の暮らしは追い詰められていき、1637年、ついにその糸が切れた。
島原半島南部で蜂起が始まり、それは海を隔てた天草へも広がっていく。
後に「島原・天草一揆」と呼ばれる大規模な一揆である。
一揆勢には農民だけでなく、キリシタンや浪人なども加わり、やがて天草四郎を総大将に掲げ、原城に籠城した。
幕府は大軍を送り込み、数ヶ月に及ぶ攻防の末、1638年に原城は陥落する。
こうして一揆は終わった。
しかし、そこで失われたものは、あまりにも大きかった。
城を出て、もう一度天守を見上げた。
白亜の天守は、何事もなかったかのように青空の下に立っている。
「綺麗な城だな」
と、最初に抱いたその印象は変わらない。

ただ、その白さの向こうにある歴史を知ったことで、先ほどまでとは少し違う城に見えてきた。
水の流れる武家屋敷
旅をしていると、思いがけない風景に驚かされることがある。
それが何の前触れもなく突然現れた時程、強く記憶に残る。
特に「角を曲がった先」に現れる風景に、これまで私は何度も心を奪われてきた。
金沢の「ひがし茶屋街」、鎌倉の「高徳院の大仏」などである。
先程、島原城が突然目の前に現れた時もそうだった。
そして、島原城の北側にある武家屋敷街も同様であった。
角を曲がると、

そこには一本の道が、永遠に続くかと思えるくらい真っ直ぐに伸びていた。
その両側には石垣が続き、道の中央を細い水路が流れている。
すっと伸びる直線と石垣がつくり出す景観は、思わず息を呑む程美しかった。
ここは島原城を築いた松倉重政が、城下町を整備する際、下級武士である徒士(かち)たちをまとめて住まわせた場所である。
城に近い方から下ノ丁、中ノ丁、古丁などの町がつくられ、その後も新たな屋敷町が加わり、およそ七百軒もの武家屋敷が並んでいたという。

この一帯は「鉄砲町」とも呼ばれていた。
そこに暮らしていたのが鉄砲組、つまり鉄砲を扱う歩兵たちだったことに加え、屋敷と屋敷の境界に塀がなく、通りから奥まで見通せる様子が、まるで鉄砲の筒を覗いているようだったことにも由来するという。

そして、この町を歩いていて何より印象的だったのが、道の中央を流れる細い水路であった。
これは自然の川ではない。
約2キロ離れた杉谷の水源から引かれた人工の水路で、かつては武家屋敷に暮らす人々の飲料水としても使われていた。

だからこそ、水を管理する「水奉行」まで置くなどし、大切に守られてきたという。
城の中で見たのは、重い年貢やキリシタン弾圧、そして島原・天草一揆へとつながっていった激動の歴史であった。
しかし城を一歩離れると、そこにはまったく違う時間が流れていた。
水路には今も清らかな水が流れ、その両側には石垣が続く。
四百年近い時を経ても、かつて武士たちが暮らした町の輪郭が、今なお残されているのである。
腰をかがめて水をすくってみると冷たかった。
かつて、この町に暮らした人々も、同じようにこの水に触れていたのだろう。

「ここには江戸の昔が残っています」
案内板の最後に書かれていた言葉が、絶えることなく流れ続ける水を見ていると、少しだけ分かったような気がした。
雲仙岳、もう一つの顔
道の駅「ひまわり」で、昼食は島原そうめんにした。

このそうめんは、細い麺でありながら、噛むとしっかりとしたコシがあった。
そして印象に残ったのが、そうめんに浸したつゆである。
広島周辺ではあまり味わったことのない、どこか甘みを感じる出汁の旨味で、つるりと喉を通るそうめんとの相性が実に良かった。
さて、この道の駅から眺める雲仙岳は、昨日、西側から眺めた姿とはまるで別人のようであった。

千々石展望台から眺めた西側の姿には、やさしく穏やかな印象を持った。
ところが東側へ回ると、その表情は一変し、荒々しくも厳しい顔を見せていた。
道の駅から100mほど東にあったのが、

「土石流被災家屋保存公園」。
先程、東側から見る雲仙岳は荒々しくも厳しい顔をしていると書いた。
しかし、その言葉が単なる山の印象では済まされないことを、ここで思い知らされることになった。
公園に残されているのは、1992年8月9日に発生した土石流によって埋没した家屋である。
幸い、この家の住民は前年の1991年5月15日に出された避難勧告を受けて、すでに避難しており、人的被害はなかったという。

最初に目に飛び込んできたのは、土砂の中に深く埋まった一軒の家だった。
屋根は残っているが、その下にあるはずの一階部分は、まるで地面の中へ沈み込んでしまったかのように見えない。

いや、家が沈んだのではなかった。
それ程の高さまで、土砂が押し寄せたのである。

さらに驚いたのは、この土石流が一度きりの出来事ではなかったことである。
普賢岳の噴火によって山腹に大量の火山灰や噴出物が堆積し、それが大雨によって水とともに一気に山を下った。
その濁流は土砂や岩石を巻き込みながら麓の集落へ押し寄せ、人々が暮らしていた家々をのみ込んでいった。
今、目の前に残されている家々は、その時の姿を伝えるために保存されている。

今朝、仁田峠から眺めた雲仙岳は、実に雄大で美しかった。
約50万年という時間をかけて山々をつくり、温泉をもたらし、人々が暮らす大地を形づくってきた火山だが、その同じ火山が、時として人々の日常を一瞬にして変えてしまう。
火山には、恵みをもたらす顔と、災害をもたらす顔がある。
西から見た穏やかな雲仙岳と、東から見た荒々しい雲仙岳。
その二つの顔が、ここに来てようやく一つにつながったような気がした。
あの日、山が動いた
島原を訪れるにあたり、是非とも訪れたい場所があった。
私の古い記憶の中に、あの「火砕流」が迫って来る衝撃的なテレビの映像が残っている。
だが、火砕流とは一体どういうものなのか、その詳しい仕組みを知らないまま、これまで過ごしてきた。
だからここからは、自分の中で整理する意味も込めて、書き進めていきたい。
土石流に埋もれた家々を後にして向かったのは、「がまだすドーム」。

正式には「雲仙岳災害記念館」という。
ここは、1990年から始まった雲仙・普賢岳の噴火災害を中心に、火山の仕組みや災害の記録、そして復興への歩みを伝える施設である。
仁田峠で、平成新山が誕生するまでには「決して穏やかとはいえない出来事があった」とだけ書いた。
ここからは、その続きを書こうと思う。
1990年11月17日、普賢岳が198年ぶりに噴火した。
翌1991年になると、地下から粘り気の強い溶岩が押し出され、山頂付近に溶岩ドームが姿を現した。
その後も新たな溶岩が供給され、溶岩ドームは次第に大きくなっていった。
やがて、その一部が崩れ落ちると、高温の溶岩片や火山灰、火山ガスなどが混ざり合い、猛烈な勢いで山肌を駆け下った。
これが「火砕流」である。

1991年6月3日には大規模な火砕流が発生し、

報道関係者、消防団員、警察官、火山学者、住民ら死者・行方不明者は43人にのぼった。

それは、私の古い記憶の中に残っている、あの映像そのものであった。
当時のドキュメント映像を観ることが出来る施設で、まだ幼い娘は目と耳を塞ぎ、「怖い!」「まだ怖いシーンは続くの?」とずっと妻の膝の上に顔をうつぶせていた。
三十年以上前に私がテレビ越しに受けた恐怖を、娘は今、目の前の映像から感じているのかもしれない。
さらに、山腹や谷には火山灰や岩石など大量の噴出物が堆積し、そこへ大雨が降り、水を含んだ大量の土砂は土石流となり、山を下り人々が暮らす地域へと押し寄せた。
先ほど目の前で見た、土砂の中に埋まった家々のあの光景がどのようにして生まれたのか、ここに来てようやく分かった。
しかし、館内を巡っていると、私はさらに時代を遡ることになった。
雲仙岳が人々の暮らしを大きく変えたのは、平成が初めてではなかったのである。
時計の針を、およそ二百年前の江戸時代まで戻してみたい。
1791年、島原では地震が相次ぐようになった。
翌1792年には普賢岳で噴火活動が起こり、その後も地震が続いた。
そして5月21日。
大きな地震をきっかけに、島原の町の背後にそびえる眉山が大崩壊した。

(写真は、島原城から見る眉山)
大量の土砂は山麓をのみ込み、そのまま有明海へとなだれ込んだ。

(写真は島原城から見る有明海)
すると今度は、その巨大な土砂で海水が押し出され、津波となって沿岸を襲った。
災害は島原だけでは終わらなかった。
津波は有明海を越え、対岸の肥後、現在の熊本県側にも押し寄せ、さらに対岸から返ってきた波が、再び島原側を襲ったとも伝えられている。
島原と肥後を合わせた犠牲者は約1万5千人。
日本の火山災害史上、最大の犠牲者を出した災害となった。
後に、この出来事は、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれるようになった。
最初この文字だけを見て、何とも不思議な言葉だと思ったが、その意味を知れば、この言葉ほど災害の広がりを端的に表した呼び名はない。
島原で起きた山の崩壊が、海を動かし、その海が対岸の肥後にまで災害を運んだのだ。
ところで、「がまだす」とは島原地方の方言で、「がんばる」「精を出す」といった意味なのだという。
訪れる前は、少し変わった名前だと思った。
しかし館内を巡り終えた今なら、なぜこの施設に「がまだす」という言葉が掲げられているのか、少し分かるような気がした。
火山とともに生きるということは、その恵みだけを受け取ることではない。
時として牙をむく大地と向き合い、災害の記憶を残し、それでも、この土地で再び暮らしていく。
島原の人々の暮らしは、いつの時代も雲仙岳と隣り合わせにあった。
遠ざかる山、近づく島々
長い時間を過ごした島原半島とも、そろそろお別れである。

車ごとフェリーに乗り込み、島原の岸を離れた。
船がゆっくりと沖へ進んでいく。

何気なく振り返ると、雲仙岳があった。
昨日は西から、今朝は山の中へ入り、仁田峠から、そして昼には東側から。
わずか二日の間に、これほど様々な角度から一つの山を眺めることも、そう多くはないだろう。
しかし、海の上から眺める雲仙岳は、また違って見えた。
ところで、「雲仙」という美しい名前にも由来がある。
この地は、かつて「温泉」と書いて「うんぜん」と呼ばれていた。
やがて江戸時代になると、文人たちによって「雲仙」という風雅な文字が使われるようになり、1934年の国立公園指定を機に、現在の「雲仙」という表記が定着していった。
今回の旅行中、雲仙岳はほとんど雲の中にあった。
いつもその全容を見せてくれるわけではなく、むしろ、雲の間から見え隠れするからこそ、どこか人を寄せつけないような山として映った。
船尾から島原半島は少しずつ遠ざかり、山の姿も小さくなっていく。
やがて私は雲仙岳に背を向け、船の進む先へと視線を移した。

海の向こうには、天草の島々が見え始めていた。

さて、明日のイルカウォッチングの発着場所を考えるならば、これから到着する鬼池港から近くの宿が最適であることは誰よりも分かっていた。
しかし、妻からの進言を押しのけてまで松島に宿をとったのには理由があった。
天草らしい、島々が浮かぶ海の風景の中で一日を終えたかったのである。
「ホテル竜宮」に到着したのは19時前。
島原を離れた頃にはまだ高かった太陽が、今度は天草の島々の向こうへ沈もうとしていた。
部屋に案内され、ホテル従業員がカーテンを開けた瞬間、
「わぁ、すごい!」
と娘が声を上げ、窓へと吸い寄せられた。

海に浮かぶ島々の向こうへ、太陽がゆっくりと高度を下げていく。
不思議なもので、夕陽というものはどこで見ても同じ太陽のはずなのに、旅先で見ると、なぜこれほど特別に見えるのだろうか。
やがて太陽が島影へ近づくと、空も海も黄金色に染まり始めた。
私たちはしばらく言葉少なに、その様子を眺めていた。
島原から海を渡ってきた私たちの長い一日は、

天草の夕陽と共に静かに暮れていった。




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