② 長崎・雲仙・天草 Day2|坂の街を歩いて ―― 白い湯の待つ雲仙へ

長崎

日本の端にあった世界の入口

 長崎湾は、思った以上に細く長い筒のような形をしていた。

だが、この風景を見て、私はある疑問を抱いた。

江戸時代、鎖国下の日本において、海外へ開かれた玄関口にしては、あまりにも狭いということである。

利便性だけを考えるなら、福岡や大阪、横浜の方が、よほど広く使いやすそうに思える。

ところが、長崎が選ばれた理由の一つは、まさにその「狭さ」にあった。

これは帰ってから知ったことだが、外海から深く入り込み、三方を山に囲まれた長崎湾は、外海の影響を受けにくく、船が停泊するのに適している一方、細長い湾を出入りする船を監視しやすい天然の良港でもあった。

海外との交易は続けたいが、その出入りは厳しく管理したい。

幕府にとって長崎湾の地形は、その相反する二つを両立させるのに都合が良かったのだろう。

やがて海外交易の窓口が長崎へ集約され、この細長い湾の奥に、日本有数の国際貿易都市が育っていった。

そう考えると、目の前の細い海が、まるで江戸時代の日本と世界を結んでいた一本の通路のようにも見えてくる。

 さて、稲佐山山頂展望台からの眺めは、

さすが長崎を代表する風景として、幾度となく観光パンフレットを飾ってきただけのことはある。

山に挟まれた長崎の街と、その真ん中を縫うように延びる長崎湾。

港を行き交う船は、手を伸ばせば掴めるのではないかと思うほど近くに感じられた。

しかし、私がそれ以上に驚いたのは、近くではなく広く視線を向けた時だった。

北には、昨日その傍らを走ってきた大村湾。

西には五島灘、東には橘湾、そして南の彼方には天草灘。

展望台をぐるりと一周すれば、それらの海を360度の大パノラマで眺めることができたのだ。

 長崎湾だけを見ていると、山に囲まれた狭い土地のように感じていた長崎が、稲佐山の上に立った途端、三方の海へ向かって開かれた土地へと姿を変えた。

なるほど、長崎は日本の端にあったのではない。

海の向こうの世界から見れば、ここは日本の入口であったのだ。

もう、遠い町ではない

 このブログを書いているのは、7月末の旅から帰ってきた8月上旬である。

だから今、私の中には、長崎を見る2つの目線が存在している。

1つは、初めて平和公園を訪れ、平和祈念像を見上げた時の目線だ。

私たちが平和公園を訪れた7月末、園内では8月9日の平和祈念式典に向け、着々と準備が進められていた。

初めて目の前にした平和祈念像は、想像していた以上に大きかった。

物言わぬ像である。

しかし、その姿には一つひとつ意味が込められている。

天を指す右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、静かに閉じた瞼は、原爆犠牲者の冥福を祈っている。

私たち3人は像の前で横一列に並び、そっと手を合わせた。

 そして、もう一つの目線は、長崎から帰った後の8月9日、テレビの中で再びこの像を見た時のものである。

長崎の平和祈念式典は、これまでにも何度となくテレビで見てきた。

けれども、今年はまるで違って見えた。

「黙とう」の声とともに鐘が鳴り、長い1分間が始まった。

ほんの少し前、私は原子爆弾が炸裂した場所のすぐ近くに立っていた。

あの空を見上げ、あの土地を歩き、そこで暮らす人々の日常を目にしてきた。

そうした旅先での記憶と、81年前のあの日に起きた出来事とが、鐘の音を聞きながら、私の中で初めて一つの場所として重なった。

一分とは、こんなにも長い時間だったのだろうか。

そして、市長の思いが込められた長崎平和宣言を聞いているうちに、涙がとめどなく溢れてきた。

正直、こんなことは今までなかった。

広島と同じ被爆地でありながら、私にとって長崎は、どこか遠い場所だった。

しかし、遠かったのは、広島から長崎までの距離だけではなかったように思う。

知っているつもりでいても、そこに立たなければ縮まらない距離があった。

 7月末、私は初めてその場所に立った。

そして8月9日、テレビの中に映る平和祈念像を見ながら、初めて長崎を遠い町ではなく、自分が歩いた町として見ていることに気付いた。

旅をする前と後で、同じ映像が、これほど違って見える。

長崎との距離は、あの日を境に確かに変わった。

そしておそらく、もう以前の距離に戻ることはない。

グラバーが見つめた長崎湾

 グラバー園は長崎港を見下ろす南山手の丘にある。

長崎は前にも書いた通り、平地が少なく坂道だらけである。

景観が良い一方、車で訪れるとなれば道は細く、周辺に駐車場はあるにしても、その数は非常に少ないという難点があった。

 実は旅前、私たちが行きたい観光名所の候補を挙げた際、一番困ったのは、長崎市内の目的地までの手段をどうするかであった。

いくら考えても土地勘がないため、いたずらに日にちが過ぎるばかり。

ついに当日を迎え、満車かもしれない駐車場へ、イチかバチかで車を走らせるくらいなら、最初から、長崎名物の坂道を麓から上ること自体、観光に変えてやろう。

という結論に至った。

しかし真夏の空の下である。

大粒の汗を流しながら、永遠に続くかと思われた急勾配を一歩ずつ進む。

私の帽子が汗でぐにゃりとゆがんだ頃、ようやくグラバー園が現れた。

ところで、私は旧グラバー住宅(通称・グラバー邸)が有名なので、ポツンと一軒だけ建っているのかと、到着するまですっかり思い込んでいたのだが、ここは幕末から明治期にかけて、長崎で活躍した外国人商人たちの旧邸宅が集まった場所であることが判明した。

園で一番高い所にある旧三菱第二ドックハウスからは、

坂道の労をねぎらうような風景が広がっていた。

緩やかな風で涼をとりながら、今朝とは逆の方向から長崎湾を望む。

ちょうどその時、腹の底に響くような船の汽笛が鳴り響いた。

 さて、1859年の開港後に長崎へ渡ってきたスコットランド出身の商人、トーマス・ブレーク・グラバーとは何者なのか。

グラバーは、幕末から明治にかけて西洋の技術や文化が日本へ流れ込んだ時代、貿易商として坂本龍馬ら幕末の志士たちと関わり、武器や船舶などを扱っただけでなく、炭鉱や造船分野にも進出し、蒸気機関をはじめとする西洋の技術を取り入れ、日本が近代化していく過程に大きな足跡を残した人物である。

そんなグラバーが暮らしたこの場所は、私には「世界へ扉を開いた長崎」を象徴する場所のように思えた。

 しかし、繰り返すようだが暑い。

娘は暑さと前日からの疲れも重なり、次第に歩くのが辛そうになってきた。

そこで、予定に入れてあったオランダ坂、坂の上にある亀山社中跡は、断念せざるを得ない状況になった。

もし、次に来るとするならば夏以外の季節が最適かもしれない。

「さあ昼ご飯を食べるよ!」

その一声に元気を取り戻した娘とともに、次は中華街へ向かう。

歴史の橋、その下で遊ぶ

 「中華街に行くなら事前に何を食べるか考えていた方がいいよ」

と知人からアドバイスを頂いていた。

それほど、何を食べようか迷ってしまうほど店も料理も豊富なのだろう。

やはり、長崎に来たからには、ここでしか味わえないものがあるに違いないと思いもしたが、

結局選んだのは、定番のちゃんぽんと皿うどんであった。

 しかし、よほど本場の味に感動したのか、それとも相当お腹が空いていたのか、いずれにしても子供は素直である。

娘は熱いのをふうふうしながら、それでも待ちきれずに、次々と口の中へ放り込んでいく勢いであった。

 

 長崎市内で最後に向かった先は、

中島川に架かる「眼鏡橋」。

川面に映る橋の姿と合わせると二つの円ができ、それが眼鏡のように見えることから「眼鏡橋」と呼ばれるようになった。

 ところで、この橋。思っていた以上に歴史が古かった。

江戸時代初期の1634年(寛永11年)、興福寺の中国僧・黙子如定によって架けられたと伝えられ、現存する日本最古の石造二連アーチ橋なのだという。

 娘はお腹が満たされ、すっかり元気を取り戻した。

一度渡った飛び石に、再び挑戦とばかりに足を踏み出す。

いや、よく見ると少々へっぴり腰で、挑戦というより、そのスリルがたまらないようであった。

小学生低学年の娘にしてみれば、四百年近い歴史を持つ石橋より、目の前の遊び場の方が魅力的なのだろう。

その気持ちは分からないこともない。

 時刻は17時を回ったところである。

ここから雲仙へとハンドルを切るのだが、私はどうしても、この日のうちに行っておきたい場所があった。

火山がくれた、二つの恵み

 国道251号線に沿って東へと進んでいくと広大な段々畑が広がった。

何を栽培しているのかと、注意深く眺めていると、ジャガイモ畑であることが分かった。

旅ではよくこういう風景に出くわす。

群馬県の嬬恋を通った時はキャベツ畑が一面広がり、鹿児島県の知覧を通った時にはどこまでも続く茶畑が広がっていた。

その土地、その土地の気候や土壌に関係しているのだが、こういう風景に出合うと心が弾んでしまう。

 ここ島原半島は雲仙岳を中心とする火山の土地である。

火山活動によって形成された水はけのよい土壌と、長崎特有の温暖な気候がジャガイモ栽培に適し、春と秋の二期作を可能にした。

さらに石の多い斜面を段々畑へと変え、島原半島を全国有数のジャガイモ産地へと育てていったのである。

そう、火山。

雲仙岳はもう目の前であった。

(写真は、千々石展望台から見た雲仙岳)

今度は、つづら折りの寂しい山道をひたすら上っていく。

すると、ジャガイモ畑が突然現れた時と同じように、それまで木々に囲まれていた道の先が開け、標高約700メートルの山中に、いきなり雲仙温泉街が現れた。

その温泉街から少し離れた山あいに佇んでいたのが、この日、私がどうしても訪れたかった「小地獄温泉館」である。

 江戸時代から湯治場として親しまれてきた歴史ある温泉で、幕末には吉田松陰も訪れたと伝えられている。

実は、2日目最後の目的地は、最初からここに決めていた。

それほど楽しみにしていたのには、ちゃんとした訳がある。


 素早く服を脱ぎ、ガラリと浴室の扉を開ける。

すると、独特な形をした浴室の奥に、真っ白な湯がたたえられていた。

はやる気持ちを抑えながら体を洗い、ゆっくりと肩まで湯に浸かる。

熱い。

扉を開けた時から漂っていた硫黄の香りが、湯に浸かると一層濃く感じられた。

私が暮らす中国地方では、なかなか出合うことのない乳白色の硫黄泉。

これこそ、私が小地獄温泉までやって来たかった理由である。

湯の濃さも相当なものだった。

以前入った登別温泉を思い出すほどの白濁ぶりで、水面からわずか15センチほど下にあるはずの自分の体さえ、もう見えない。

浴槽は普通の湯と熱い湯に分かれていたが、冷え性の私からしても、どちらもなかなかの熱さであった。

ところが不思議なことに、これほど熱い湯でありながら、いつまで浸かっていてものぼせるような感覚がないのである。

硫黄の香りに包まれ、真っ白な湯に肩まで沈みながら、今日一日、長崎の坂道を歩き続けた疲れが少しずつ抜けていく。

そしてふと思った。

夕方まで眺めていたジャガイモ畑も、今こうして浸かっている、この白い湯も、元をたどれば同じ雲仙の火山が生み出したものなのだ。

地上では畑を育て、地下からは湯を沸かす。

火山というものは、時に恐ろしい存在でありながら、その麓で暮らす人々に、これほど多くの恵みも与えている。

そんなことを考えながら、私はもうしばらく、雲仙の白い湯に身を沈めていた。

→ 小地獄温泉

源泉 雲仙温泉(小地獄)

泉質 単純硫黄温泉(硫化水素型)(低帳性 弱酸性 高温泉)

pH 4.41

👉 Day3記事はこちら

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