鬼の正体を探しに――吉備路、古代史の旅へ
倉敷インターを降り北に向かって5キロも走れば吉備路に入る。
吉備路とは岡山市北西部から総社市にかけての一帯の総称を指すのだが、かつて、その周辺には古代吉備王国の中心部があったと考えられ、その勢力は、後の備前・備中・備後・美作にまたがる広い範囲に及んだといわれる。

現代の地図に照らし合わせると、
現在の岡山県を中心に、広島県東部や兵庫県西部にまで及んでいたとも考えられている。

また、この時代は吉備路から南には「吉備の穴海」と呼ばれる内海があり、
その地形を活かし、
瀬戸内海の水運を活かした交流や、朝鮮半島から伝わった技術・文化などを背景に、一大勢力へと成長していったようである。
当時、全国では毛野、尾張・美濃、出雲、筑紫、日向などの他勢力があったが、古墳の規模や独自の文化を見ていると、吉備は当時の日本列島でも先進的な地域の一つだったのではないか、と思えてくる。
これほどの勢力を持つ吉備は、ヤマト政権にとって無視できない存在だったのではないだろうか。
さて、岡山といえば桃太郎。
桃太郎のモデルを吉備津彦命、鬼のモデルを温羅とする説もある。
もちろん、それを史実として確かめることはできない。
だが、そう考えながら吉備路を歩けば、昔話だった桃太郎が突然、古代史の世界へとつながってくる
などと、まるで探偵になったかのようで面白い。
だが、なんせ時代が古い。
謎だらけの時代を好奇心だけで駆けてみるのも面白いではないか。
あてはないが、行けば何か観えてくるそんな気がした。

まずは鬼ヶ島のモデルになったとされる場所へ向かってみる。
1300年の謎を訪ねて――鬼ノ城
「鬼ノ城」(きのじょう)は、

標高約400mに築かれた30haという広大な面積を持つ古代山城である。

総社市教育委員会による看板によれば、
「大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江の海戦(663年)において大敗した後、唐、新羅の連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した時の一つと考えられています」
と書いてあった。
近付いてみて、まず驚いたのは、

眼下に広がる景色である。

なるほど。
ここに立ってみれば、なぜこの山に城を築いたのか、その理由が少し分かるような気がした。
遠くから近付くものをいち早く捉え、眼下に広がる平野を見渡せ、守るにも、見張るにも都合が良いのである。

伝承では、温羅は百済の王子でこの山に居城を構え、都に送る貢物や婦女子を略奪するなど、悪行を働いていたため、人々は「鬼ノ城」と呼び、都にその暴状を訴えた。
そこで天皇の命令を受けた吉備津彦命が温羅を成敗したのだという。
ここで疑問が浮かぶ。
鬼ノ城は一体誰が築いたのであろうか。
冒頭の唐、新羅の連合軍からの侵略に備えてであれば、
ヤマト政権による国土防衛のための山城と考えるのが自然だろう。
一方、温羅伝承では、百済の王子とされる温羅がこの地に居城を構えたことになっている。

鬼ノ城には朝鮮半島に起源を持つ築城技術が使われているという。
ならば、百済滅亡や白村江の敗戦を経て日本へ渡ってきた人々の知識や技術が、築城に関わっていた可能性はなかったのだろうか。
もちろん、これは私の想像にすぎない。
鬼ノ城は、吉備津彦命による温羅退治の代表的な伝承舞台となっている。
もし、吉備津彦命による温羅退治の物語の奥に、ヤマトと古代吉備との関係が何らかの形で投影され、それが長い年月を経て桃太郎伝説へと姿を変えていったのだとしたら――。
そう考えると、一応の筋が通るような気もする。
無論、これは想像の域を出ない。

正直、調べれば調べるほど分からなくなってきた。
鬼ノ城は誰が築いたのか。
温羅とは何者だったのか。
そして、温羅伝承と桃太郎はどこでつながったのか。
今後、タイムマシンでも発明されなければ、すべてが解き明かされる日は来ないのかもしれない。
でも、それで良いではないかと思う。
分かっていることと、分かっていないこと。
史実と伝承。
その境界線に立って、
「もし、こうであったならば」
と想像してみる。
もちろん、それを史実にしてはいけない。
けれど、残された痕跡をたどりながら、遠い時代に思いを巡らせることもまた、歴史を旅する醍醐味ではないだろうか。
果てまで歩きたくなる回廊――吉備津神社
鬼ノ城から山を下り向かった先は、

先ほどまで追いかけていた温羅を討ったと伝わる、

大吉備津彦命を祀る吉備津神社である。
鬼の城から、今度は鬼を退治した側へ。
石段を上った先、頭上に掲げられる「平賊安民」と書かれた扁額に目が止まった。
賊を平らげ、民を安んずる。
鬼ノ城で温羅についてあれこれ考えてきた直後だけに、この四文字が妙に印象に残った。
さらに、私の興味を惹いたのは、その物語と不思議な形をした社殿。

母屋を2つ並べて一つの大きな屋根とした全国で唯一の様式「吉備津造り」。
そこから御釜殿などをつなぐ、

総延長398mもあるという

向こうが霞む程の長い長い回廊。
緩やかな勾配に沿って、柱が規則正しくどこまでも続いていき、その先には何があるのだろう。
と、思わず最後まで歩いてみたくなる、不思議な魅力を持った回廊であった。
→ 吉備津神社
さて、夕刻が近付いている。
吉備津神社を後にした私は少し急いでいた。
あともう一ヶ所、どうしても寄りたい場所があったのだ。
夕日の光背――備中国分寺へ
再記するが、今日、岡山平野の大部分は堆積と干拓によって形成されており、
かつては、吉備の穴海という内海であった。
ということは、現在の岡山市や倉敷市に広がる平野の一部は、かつて海や浅瀬だった場所ということになる。
ならば、
古代の山陽道は自然と今の海岸線よりも北を通っていたと推察できる。
私がもしも、
「この土地に古代山陽道を通すための図面を引きなさい」
という魅力的な仕事を任されたならば、
当時の海岸線と地形を無視するわけにはいかない。
海や湿地を避けながら、できるだけ平坦で、主要な場所を最短距離で結ぶ。
おそらく、そんな線を地図の上に引こうとするだろう。
だからなのだろうか。
岡山県だけでなく、ほとんどの古代道が内陸を走ることを考えれば興味深い。
私が吉備津神社から西へ急ぎ車を走らせた理由。
それは、聖武天皇が天平13年(741)、仏教の力によって国を守るため、全国に建立を命じた国分寺。
その一つ、備中国分寺に建つ、

五重塔を、

夕日の光背に浮かぶ姿で観たかったからだ。
また、そればかりではない。
この道を歩いたであろう、名も知らぬ昔の旅人たちに思いを馳せたかった。
草鞋を履き、長い道を歩いてきた人々が、遠くにそびえる塔を見つけ、鐘の音が響く中、しばし足を止め、手を合わせる。
そんな光景を想像しながら、私もこの場所に立ってみたかったのである。




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