① 岡山・高梁・津山 Day1|時計の針を進めて ―― 水攻めの城から天空の山城へ

岡山

 難攻不落を逆手に取る ―― 備中高松城、水攻めの舞台へ

 前回の岡山旅は、古代を中心とした鬼ノ城、吉備津神社、備中国分寺に焦点を当てた。

周辺には他の時代の建造物もありはしたが、あえて回らなかった。

それは一日で回れないことは、当初から分かっていた話であったし、時代が混ざると、私自身が混乱し収拾がつかない可能性が高かったからだ。

つまりは、回らなかったというよりかは、回ることができなかったのだ。

だから、今回は時計の針をすすめ、戦国・江戸時代周辺に関わる場所に中心を置き、じっくりと2日間かけて、備中、美作を巡りたいと思った。

 まず、広島から山陽自動車道を飛ばし最初にやって来たのは、毛利軍と秀吉(織田軍)の戦場となった備中高松城跡。

いわゆる、水攻めで有名な備中高松城の戦いで、

本能寺の変を知った秀吉が天下人へ駆け上る転換点となった場所だ。

まずは戦いのあらましから。

天正3年の長篠の戦で武田を破った織田軍は東の脅威を取り払うことに成功した。

畿内もほぼ制圧し、信長の目は西の中国地方へと向けられることとなる。

信長から中国地方攻略を任された秀吉は、播磨を足掛かりに西へと軍を進め、三木城、鳥取城などを攻略。やがて毛利氏との勢力争いの最前線である備中へと迫っていった。

この素早さには兵の多さという理由もあったが、力攻めだけではなく、調略、懐柔、包囲など城を攻める前に、人の心を攻めるといった戦い方もまた、秀吉の中国攻めを特徴づけるものだった。

ここで秀吉の前に立ちはだかったのが、私がこの旅でどうしても触れておきたかった武将、清水宗治である。

大軍で取り囲まれようが、甘い勧誘であろうが、毛利領東の最前線であるこの城を自分の命に替えても守るという、ほかならぬ義の武将、清水宗治その人である。

天正10年(1582)、秀吉軍はいよいよ毛利氏の東の防衛線へと迫り、清水宗治が守る備中高松城を包囲した。

 駐車場から進んで行く中、目を疑いたくなった。

見渡す限りの田畑の中、ここが城跡であることを示す幟が風に揺れているだけで、

高低差もなく、本城にしては、あまりにも無防備過ぎるように思えたからだ。

ところが、ここが本城と言わしめる訳を発見した。

沼の存在だ。

城の周りにこのような沼が展開され、実際に宇喜多軍などが攻め込むも、

攻め口が限定されるため、このままでは兵の消耗が激しすぎると、力攻めすることができなかったのである。

ところが、その地形を逆手に取る策が秀吉方から生まれる。

黒田官兵衛の献策と伝わる、水攻めである。

城を守っていた「水」が、今度は城を攻める武器へと変わる。

天下に名高い「備中高松城の水攻め」の始まりである。

水攻めの果てに ―― 清水宗治、最後の決断

 力攻めをすれば、秀吉方にも大きな損害が出る。

かといって兵糧攻めでは、いつ決着するか分からない。

そこで考え出されたのが、城を守っていた低湿地そのものを逆手に取る水攻めであった。

城の周囲を水で囲んでしまえば、外からの援軍との連携も難しくなり、城は孤立する。

そのためには堤を築き、川の水を引き入れなければならない。

だが、問題はその規模である。

高さ約7m、長さ約3kmにも及ぶ巨大な堤を、わずか12日ほどで築いたと伝わっている。

にわかには信じ難い大工事である。

私は急に約400年以上前の大工事跡を見たくなり、居ても立っても居られなくなった。

そこで現存している堤の一部が残っていると聞き、

「蛙ヶ鼻」へやって来た。

これが人の手で造られたのだと思いながら堤の上を歩くと感慨深いものがあった。

 さて、足守川から取り込まれた水は、折しも雨期と重なり、見る間に城を水没させていった。

ここで日本史を揺るがす事件が起きた。

本能寺の変である。

6月2日の未明に織田信長が明智光秀に討たれた。

その知らせが毛利方より先に秀吉のもとへ届いたこともまた、歴史の巡り合わせというほかない。

とにかくも、毛利方が知る前に一刻も早く講和を結び、光秀を討たなくてはならない。

(以下、備中高松城址 資料館 パンフレットより引用)

秀吉は毛利の軍師、安国寺恵瓊を呼び、

「今日中に和を結べば毛利から領地をとらない。 清水宗治の首級だけで城兵の命は助ける」

という条件で宗治を動かした。

宗治は、

「主家の安泰と部下5千人の命が助かるなら明日切腹する」

と自刃を承諾した。

6月4日、清水宗治は湖上に船を浮かべて自刃し、織田と毛利の和睦が成立した。

 おおよそ人の上に立つ者とは、宗治のような人物を指すのではなかろうか。

歴史を振り返れば、どうしても勝者である秀吉や、その傍らにいた官兵衛の活躍に目を奪われてしまう。

しかし、この場所に立って私の心に残ったのは、敗れた側の清水宗治であった。

自らの命と引き換えに、主家と城兵の命を救う。

それが戦国の世において、どれほどの覚悟を必要としたのか、今を生きる私には到底分からない。

ただ、立場や時代が変わろうとも、

自分のためではなく、誰かを守るために最後の責任を引き受ける。

そんな人の在り方には、時代を越えて心を動かされるものがあった。

山懐に抱かれた城下町 ―― 備中高梁

 知らない街を初めて訪れた時、最初に目にした風景は、不思議なほど記憶に残る。

それは、駅の改札口を抜けた風景であったり、トンネルを抜けた風景であったりと、ここが、いつか行ってみたいと夢見た彼の地か・・・と感慨深く、記憶が濃く残る部分であって、街の印象がほぼここで決まると言っても過言ではないからだ。

 車は備中高松を離れ、岡山中部縦貫道路の山道を縫うように走っている。

どこまでも木々や田畑が続くように思われた景色であったが、それは大きな右カーブを回った所で一変した。

突如、左手に霧が晴れたように視界が開け、思わず息を呑むような風景が、視界いっぱいに飛び込んできたのだ。

幸い、ちょうどそこには展望駐車場があったので、慌ててハンドルを切り、車を停める。

するとどうだ。

高い山々に囲まれた盆地に、頭の高さを揃えたような低い街並みが広がっている。

ちょうどやって来た電車の走る音が、ガタンゴトンと、まるで傍で走っているかのように大きく反響している。

街並みも、列車の音も、すべてが山々の内側にすっぽりと収まっている風景は、まるで、曲げわっぱの中に具材を整然と詰めたようで、心底美しいと思った。

そういう意味で、初めて備中高梁を訪れるなら、国道484号から入るこのルートの劇的さは格別である。

しっかりと景色を堪能した後は、峠を下りてみることにした。

 下りてみて、より一層、山懐にいだかれていると感じたのは、四方どの角度を向いても、のっぽの山が見えたことだ。

それは高い建物がないことも関係するが、もう一つは、土塀、白壁、木造家屋が、川と山に挟まれた狭い土地にぎゅっと収まっており、また、道が碁盤の目のように整っているため、十字路に立つと、街中にいながら遠くの山まで見通すことができたのである。

道はそこまで広くないから、

瓦屋根の下を、走り抜けるというより、そろりそろり「お邪魔します」と、腰を低くして進むという感じで、いかにもそれらしい雰囲気を漂わせている。

どうしてだろうか。

初めて来たというのに、どこか懐かしい。

私は今、古き良き時代を受け継ぐ備中高梁の城下町に立っている。

地名は変わり、城の名は残った ―― 備中松山城

 この街は地理好きからしてみれば、大変興味深く面白い。

地図を俯瞰してみると、高梁の地形はどことなく人体の胃に似ている。

その中心を、高梁川が南北に貫いている。

古くから人や物が行き交うこの川筋を押さえ、さらに周囲を山に囲まれているとなれば、これほど城を置くのに都合の良い土地もあるまい。

そんな地形を見下ろす臥牛山に築かれたのが、これから向かう備中松山城である。

ところで、一つ疑問があった。

高梁(たかはし)市にありながら、どうして城の名は「高梁城」ではなく、「備中松山城」なのだろう。

調べてみると、その答えは城ではなく、この土地の名前の変遷にあった。

この地は中世には「高橋」と呼ばれていたとされる。

ところが城主となった高橋宗康と地名が同じだったことから、城主を呼び捨てにすることを避け、「松山」へ改められたという。

その後、明治を迎えるまで「松山」と呼ばれ、伊予松山と区別するため「備中松山」と呼ばれるようになった。

そして明治になると、今度は「松山」から「高梁」へと変わってゆく。

なるほど。

城の名前が変わらなかったのではなく、城を取り巻く地名の方が、時代とともに変わっていったのだ。


 バスは急なカーブが続く山道を

車体を右へ左へと揺らしながら登っていく。

早朝出の疲れもあったので、もう少し乗っていたい気持ちであったが、ゆっくりする間もなく、臥牛山8合目の 「ふいご峠」で降ろされた。

そこからは徒歩でゆく。

山城は足腰が丈夫でないと辿り着けないと相場が決まっているから、そこは覚悟を決め、約700m先の天守を目指す。

石垣が見えてきた。

「ようやく天守か」

と思いきや、

ここは、尾根小屋と天守との連絡に使われたという「中太鼓の丸跡」。

つまりは、まだ中間地点。

城にも、一目惚れがある ―― 備中松山城

 大手門前まで続く真っ直ぐな道は、

いよいよ、この山城が素顔を見せようとしていた。

 木々のトンネルを抜けると、

天然の岩盤と一体になった石垣が、幾重にも折り重なるようにそびえ立ち、威厳と優美さを、物言わず放っていた。

これを壮観と言わずして何と言うべきか。

天守を見る前に、まずは石垣で魅せられたという訳だ。

 ところで、この備中松山城の名を全国に知らしめたのは、現存12天守の中で唯一の山城ということもあるが、やはり雲海に浮かぶ天空の城の写真や映像の力が大きいのではなかろうか。

季節によって色を変える木々、城を包み込む雲海、そして自然の岩盤と一体になった石垣。

備中松山城には、城だけでは完結しない、自然と溶け合った美しさがある。

先刻、知らない街を訪れた時、最初の風景がどう目に飛び込んでくるかは、とても重要だと書いた。

城もまた、同じなのかもしれない。

と書いたが、城もまた同様だと思わざるを得ない。

城というと、堅固で雄々しい姿を思い浮かべるかもしれない。

けれど私には、どういう訳か女性の姿に映ることが多い。

石垣、櫓、瓦はまとう着物であり、透き通る白の漆喰は肌のようだ。

初めてその姿と向き合った瞬間、心を奪われる。

それは、一目惚れに似ていた。

不便が残し、人が守った ―― 備中松山城

 備中松山城には猫の城主がいる。

この名をさんじゅーろーと呼ぶ。

平成30年7月豪雨の後、備中松山城の三の丸で保護されたことをきっかけに、この城に住み着くようになり、今では全国から訪れる人々に愛される存在となっている。

この日はバスの最終便が近かったこともあり、観光客の姿もまばらだった。

娘は頭をなでたり、そばに座ったりと、ほぼ城主を独り占めしていた。

 さて、天守は、

一見、三層であるかのようにも見える。

ところが、実際は二層二階。

現存天守の中では小ぶりながら、山頂の石垣や櫓と一体になった姿には、数字以上の存在感があった。

しかし、こうして山上の建物が今も残っているのは、皮肉にも山城であったが故である。

明治を迎えると、備中松山城も廃城となった。

山上の建物は売却され、本来なら解体されて、その木材や瓦が別の場所で再利用されても不思議ではなかった。

ところが、ここは山の上である。

解体するにしても、木材や瓦を麓まで運び下ろさなければならない。

あまりにも不便だったが故に、建物は解体されることなく、山上に取り残されることになったのである。

もっとも、それですべてが良かったわけではない。

人の手を離れた城は次第に荒廃していった。

天守にはツタが絡みつき、建物は崩壊寸前にまで追い込まれていたという。

そんな備中松山城に、再び光を当てた人物がいた。

昭和初期、高梁中学校の教諭であった信野友春である。

信野は荒れ果てた山城を調査し、その成果を『備中松山城及其城下』として世に送り出した。

これをきっかけの一つとして、城をこのまま失ってはならないという保存への機運が高まっていく。

やがて修復工事が始まるのだが、ここで再び大きな問題が立ちはだかった。

やはり、山の上なのである。

城を直すためには、修復に必要な資材を今度は麓から山上へ運ばなければならない。

その中には大量の瓦もあった。

地元の小学生から高校生までが協力し、約2万枚もの瓦を山へ運び上げたという。

かつて、建材を運び下ろすには不便すぎた山道を、今度は城を守るため、人々が瓦を抱えて登っていった。

何とも不思議な巡り合わせではなかろうか。

その後も修復と保存は続けられ、天守、二重櫓、三の平櫓東土塀は重要文化財として今日まで受け継がれている。

そして現在、備中松山城は日本100名城の一つにも数えられている。

まことに幸運な城だと思う。

最初に城を救ったのは、皮肉にも山の上という「不便さ」であった。

そして次に城を救ったのは、その不便な山道を登った人々だった。

不便が高梁の宝を残し、人の手がそれを日本の宝へとつないだのである。

私たちはそれらを堪能するかのように、時間一杯、くまなく散策した。

立ち去りがたい気持ちを振り払うように、さんじゅーろーに声を掛け、手を振りながら、夕日を浴びる天下の名城を後にした。

さあ、ここからは備中を離れ、北東の美作へと向かう。

👉 Day2記事はこちら

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