知らない街の、懐かしい朝 ―― 津山
窓から差す朝焼けで目が覚めた。
カーテンを開けると、まだ路上に車の走る姿なく、信号もまばたきを繰り返すのみで、時折鳴く小鳥の声以外に音はない。
街はようやく起きたばかりといった様子である。
昨晩、津山に入ったのは19時過ぎ。
日はとっぷりと暮れ、カーナビが指し示す経路にただただ従いながら、どっちが北やら南やら分からぬままホテルに入り、疲れた体をベッドに投げ出す格好ですぐに就寝した。
だから、朝になって初めて見る津山城下の風貌は、

静かな薄紅色の光によって、夜の中から街の全容があぶり出されていくかのようで、私に劇的な印象を与えた。

さて、城下町を散策する前に地理的な感想を率直に述べるなら、津山は実に不思議な場所だと言わざるを得ない。
それは山深い中国山地の真ん中にあって、突如、空に向かって大きく口を開くかのように、広い盆地が現れるからだ。
山深い中国山地の中に、これほど広々とした平地が突然現れることが、私には何とも不思議に思えた。
確かに横長に走る山地が中央ではなく北に構えていることも要因であろうが、何故か、好奇心をそそられるように地図を何度も見てしまう。

現在の津山市域には、古代、美作国の国府が置かれた。
さらにこの地を通る出雲街道は、山陽と山陰を結び、人や物、文化が行き交う道として重要な役割を担ってきた。

津山には今も、城跡を中心に武家地、町人地、社寺地といった城下町の構成がよく残されている。
とりわけ出雲街道沿いには、江戸時代以来の町割りや古い建物が残り、城東・城西の二地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
様々な感情を抱きつつも、

初めて訪れたはずなのに、どこか懐かしい。
そんな美作国十八万六千五百石の城下町を歩いてみると、初めて見えてくる景色があった。
石垣だけで、城は語れる ―― 津山城
津山城を12年もの歳月をかけて築いたのは、美濃から美作へ入封した森忠政である。
森忠政は、織田信長の側近として知られる森蘭丸の弟であり、城を築くと同時に、現在につながる津山の城下町を整備していった。

その津山城、平山城とはいえ、幾重にも積み重なる石垣は目を見張るものがあった。

以前、滋賀の安土城跡、香川の丸亀城を訪ねて、これは見事だと思ったが、なんの、この城の石垣も引けを取らないどころか、肩を並べる立派な造りで、訪問者へ向け、声なき声でどうだと言っているようである。

山の大半を幾重もの石垣で固めた姿は、まさに巨大要塞。
本丸へ向かう道も、右へ左へと何度も折れ、そう簡単には辿り着かせてくれない。
そこがまた、要塞を歩く面白さでもあり、角を折れるたびに心をくすぐられる。

天守がなくとも、日本100名城に数えられるのも頷ける。

本丸まで辿り着くと、今度は朝から気になっていた津山盆地が眼下に広がった。
いくつもの支流を集めた吉井川が、広々とした盆地を悠々と流れ、その吉井川の向こうまで津山の街並みが広がっている。

何より嬉しかったのは、失われたものがありながらも、先人たちから今日まで多くの人々の手によって、この城跡が守り継がれてきたことである。

涼やかな風が頬を撫で髪を揺らす。
それが何とも気持ち良かった。
+
話は前後するが、津山城へ登る前「津山郷土博物館」に立ち寄った。
何故立ち寄ったかといえば、明治の廃城後、天守をはじめとする建物は取り壊され、現在は残っていないので、五層の外観を持ちながら内部は四階という、いわゆる「五層四階」の天守模型や古写真を見て、在りし日の城の姿を事前にイメージしたかったからである。
これが素晴らしかった。
建物の全高は約22メートル、上階が規則的に小さくなってゆく層塔型天守の構造で破風が見られず、その姿は意外なほど端正である。
現在その姿を見ることのできる城で、どこか似た印象を探すなら、会津若松城だろうか。
天に向かって一点突き出た姿は、広い盆地のどこからでも見えたであろうと、江戸時代の旅人になったつもりで想像した。

そんな在りし日の姿を頭に焼き付けてから、天守台跡に立った。
しかし、そこには何もないのである。
けれど、不思議と私には天守が見えるような気がした。

もはやどうにもこうにも声にならない。
跡だけで、これほど人を圧倒する城もそうはあるまい。

江戸城、安土城、高松城、名護屋城、そして津山城。
もし忠実な復元が可能になる日が来るのであれば、私はその姿を見てみたい。
叶わぬ夢かもしれないが、失われた天守が再び空へ立ち上がる姿を、一度この目で見てみたいものである。

扇形庫という名の劇場 ―― 津山まなびの鉄道館
改めて地図を広げ、津山駅から延びる線路を指で辿ってみると面白い。
東西には姫新線、南には岡山へ向かう津山線、北東には鳥取方面へ続く因美線。
中国山地の中にありながら、津山を中心に鉄路が三方へ伸びている。
中国山地のど真ん中にあって、こんな場所も珍しい。
それでも、この山中にぽっかりと開けた盆地と交通の要衝という地の利を生かし、津山は美作地方の中心都市として発展してきた。
そう考えると、津山が「鉄道の町」として発展したことも、偶然ではないように思えてくる。
山陽と山陰との懸け橋になった津山駅構内に、1936年に建設された「旧津山扇形機関車庫」の施設に手を加えた「津山まなびの鉄道館」があった。

扇を広げたかのような扇形庫(せんけいこ)は全国でも希少で、現存する扇形機関車庫の中では、京都の梅小路に次ぐ全国2番目の規模を誇る。
普通であれば、ずらり眩しいように並ぶ列車が、主役となり得るはずだが、ここでは途端に脇役となってしまう。
それは「転車台」の存在に他ならない。
扇形庫は同じ形をしたギリシャ、ローマに現存する古代劇場を彷彿させた。

もし、古代劇場に例えたならば車庫に納まる列車は観客席にあたり、その劇場中心には、舞台があり、転車台という主役がいる構図だ。

転車台とは、蒸気機関車などの向きを変えたり、扇形庫の各線へ振り分けたりするための巨大なターンテーブルである。
子どもの頃、友人の部屋で遊んだプラレールの記憶は今でも鮮やかだ。
車両はスイッチを入れてしまうと、勝手にレールを走り出してしまい、ただ眺めているだけなのだが、転車台だけは違った。
一旦、スイッチを切り、ダイヤル式の取っ手をグルグルさせて別の線路へと移動してやるひと手間がある。
これが楽しかった。
後日、旧津山扇形機関車庫の転車台が実際に動く動画を見た。
ゆっくりと回転するその姿は、舞台の中央で優雅に舞うバレリーナのように美しかった。

蒸気機関車からディーゼル、電車、そして高速鉄道へ。
鉄道技術が目まぐるしく進歩してきた中にあって、

それでも、この古い「鉄道の劇場」は、今なおここでしか味わえない存在感を放っていた。

心の中に鐘が鳴る ―― 誕生寺
津山駅から線路伝いに南へ約15km進むと誕生寺があった。

以下、看板より抜粋
栃社山誕生寺は、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、浄土門念仏元祖法然上人誕生(1133年)の地に、師法然上人のお徳を仰ぎ上人誕生の旧邸を寺院に改めたものです。また、蓮生は、この寺で亡き上人のご両親の追善供養のため、五年間の常行念仏を修したといわれています。以来八百数拾年の星霜を経て、境内には法然上人のゆかりの公孫樹、片目川、産湯の井戸などがあり、また法然上人二十五霊場第一番札所となっています。
両幡の天降ります椋の木は世々に朽ちせぬ法の師の跡(熊谷入道詠)

境内に入るなり、

秋の空が高く、そして深く感じることができたのは、雲があったからだ。
心の中に鐘の音が響き渡る。
懐かしさの正体 ―― 美作滝尾駅
元来た道を辿って最終目的地の「美作滝尾駅」に着いた。
どうしてここを最終目的地にしたのか。
美作滝尾駅は、映画「男はつらいよ」シリーズ第48作『寅次郎紅の花』。その冒頭で、寅さんが降り立った駅である。

見ての通り昭和3年に開設された、いかにも田舎のどこにでもある木造駅舎である。
が、冷静に考えると、どこにでもあるというのは誤りだろう。
その風景は、あくまで私の昭和の記憶であって、実際は私の故郷周辺の木造駅舎は老朽化により面影すらなくなってしまっている。
言うなれば、記憶の中にある駅舎と寅さんに会いに来たというのが本当のところ。

木の薫り漂う駅舎でのやり取りが、目の前で繰り広げられているようで私自身、映画に溶け込んだ気分になった。

実は、前日からの高梁の城下町も、津山の城下町も「男はつらいよ」のロケ地に選ばれている。
高梁市では、8作目「寅次郎恋歌」、32作目「口笛を吹く寅次郎」。
津山市では、48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。
人情味あふれる風景だからこそ、
「寅さん」映画にしっくりとなじみ、安心して観ていられるのだと思った。
旅の終わりは、次の旅の始まり
本当に高梁、津山は遠かった。
場所の話ではなく、行くまでの期間の話である。
距離でいえば、相方の実家よりも近いし、隣の岡山県でもあるにも関わらず、そのうちそのうちと思いながら、40代最後の歳にやっと辿り着けたといった感じだ。
こんなに良い所であったならば、早く来れば良かったと我ながら都合がいい。
旅を振り返ってみて、まず思うことは、やはり田舎は良いということだ。
無論、田舎という言葉で地方を卑下しているわけではない。
今回でいえば、古き良き城下町の風景ということになる。
高度経済成長という大きな時代の変化の中で、海岸沿いには工場が建ち、駅前には大きな商業施設、その周囲には住宅街が広がっていった。
暮らしが豊かになる一方で、その陰では、昔から続いてきた町並みや建物の中に姿を消していったものも少なくない。
そんな時代の変化を経験しながらも、今回歩いた高梁や津山には、今なお城下町の面影が随所に残っている。
いや、「残った」という言葉だけでは足りないのかもしれない。
残そうとした人たちがいたから、今も残っているものがある。
趣(おもむき)があるとは、辞書を引くと、しみじみとした風情が感じられる様子、興味をそそられ、心惹かれる様子とあった。
古き城下町は、日本人にとっての心の風景の一つなのかもしれない。
海外から日本を訪れる人々が、古い町並みや寺社、城跡を熱心に歩いている姿を見ることがある。
外から眺めるからこそ、私たちが日常の中で見過ごしているものが、かえって鮮明に見えることもあるのだろう。
当たり前にそこにあるものほど、その価値には気づきにくい。
さて、相も変わらず、慌ただしい2日間に詰め込んで解ったつもりになっているが、それでも私にとって、旅をする度に心が少し豊かになるのは確かなことだ。
「また今度はどこに行こう」
帰りの車内は、もう次の行き先を探している。





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